ブックタイトル広報つちうら 2017年1月上旬号 No.1186

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広報つちうら 2017年1月上旬号 No.1186

9 広報つちうら 2017.1.1 五銖銭は前漢の武帝が元げんし狩ゃ4年(紀元前119年)に初鋳造し、隋ずい代(589~618年)まで使用されました。しかしこの貨幣はしばしば改鋳されたために、形体や字体に変化が多くみられます。なお中国では、一銖銭として新の王おうもう莽が始しけんこく建国元年(9年)に小しょうせんちょくいち泉直一という五銖銭一単位の価値を有する小銭を鋳造していますが、我が国では発見されておりません。 今回紹介した2枚の中国コインはどんな遺跡から発見されたのでしょうか。半両銭の出土した下郷古墳群は、昭和55年7月老人福祉センター「湖畔荘」建設によって記録保存後一部が削さくへい平された遺跡で、その折南側の円墳(2号墳)は遺存状態が良かったので保存されました。平成9年度、この古墳を避けて国道が敷設されることになり発掘調査が実施され、縄文時代から中世にかけての複合する遺跡であることが判明しました。その一角に中世末期(15~16世紀頃)の石塔を伴う土どこう坑が発見され、この付近で発掘されたものです。古銭はほかに、中国北宋時代の皇こう宋そうつう通寶ほう(1038年)も発掘されました。五銖銭は御ヨ大遺跡のSX‐2号と命名された中世土坑から発見され、北宋時代の嘉か祐ゆう元げんぽう寶(1056年)、元げんゆう祐通つう寶ほう(1086年)の2枚が一緒に出土しています。 以上の事実から、これら二枚の中国コインは弥生時代の遺物ではなく、中世の埋まい納のう銭せんと同じ性格の資料であり、同様の遺跡は千葉県や長野県でも確認されています。平安時代の末から鎌倉・室町時代(中世)にかけて貨幣経済が活発になったため,中国の宋や明王朝の貨幣を大量に輸入して,日本全国で利用していました。 このような中国のコインが、渡来銭として市内の遺跡から発見された意義は考古学上大変貴重なことであります。ちなみに半両銭の弥生時代遺跡からの発見は、北九州を中心に現在5遺跡24枚、五銖銭は5遺跡100枚が発見されるにすぎません。ただし両銭ともに福岡県沖ノ島から祭さいし祀遺物として前者が20枚,後者が96枚発見されており、他の4遺跡はいずれも各1枚のみです。こうして見ると、これらの銅銭がわが国に伝来したのは当時の威いしん信財ざいあるいは神祭の祭器とされていたことが証明されます。こうした文ぶんぶつ物が後世の土浦から発見されたものでしょう。20157.1.1半両銭(右は拓本)(下郷古墳群)五銖銭(右は拓本)(御 遺跡)ヨ大