ブックタイトル広報 常陸大宮 2016年12月号 No.147
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広報 常陸大宮 2016年12月号 No.147
?????????????? ?????そがじんじゃぎおんさい素鵞神社と祇園祭執執執執執執執執執執執執執執執うつそれがどうして天王から現在地に遷されたのでしょうか。答えは、江戸時代の元禄年間(1688~1704年)に水戸藩によって行われた、一村一社制にあります。へたれこの制度によって甲神社が部垂村※一村の鎮守となり、素鵞神社は甲神社の摂社として現在地に遷されたと伝わっています(一説には現在地に遷座する前に上町を経由したともいわれています)。本市の大宮地域で行われている祇園祭。以前は4日間で行われていた祭事ですが、3日間へ※部垂村・・・大宮村の旧称。天保14年(1843)に大の短縮、自動車交通量増加による一時中断を経て、現宮村に改名。在は7月下旬の2日間に簡略化され、行われています。執執かぶと執祇園祭は甲神社周辺で行われるため、甲神社の祭事さて、ここで出てきた天王という地名に、聞き覚え執と認識されている方もいるかもしれませんが、正確に執のある方もいると思います。現在の姥賀地区に地名がそがごずは甲神社境内にある摂社素鵞神社の祭事です。執残る「天王」は、牛頭天王を指しています。執執さかのうえのしょうじゃしらぎ社伝によると、素鵞神社は征夷大将軍坂上田村麻呂執牛頭天王は、インドの祇園精舎の守護神とも、新羅執が東北に遠征する途上に立ち寄った際に、子ども達が執の牛頭山の神ともいわれる諸説ある神様で、日本ではすさのおのみこと神像らしきものを担いで騒いでいるのを見て、その神執執神仏習合により、素戔嗚尊と同一視されていました。像を「霊験あらたかなもの」として祀ったのがはじま執その牛頭天王は、もともと人々に疫病をもたらす疫神りとされています。執執とされていましたが、祀れば逆に疫病やその他の災厄執から護ってくれると考えられていました。そのため医執執学の乏しい時代では、疫病への対抗手段として牛頭天執王を祀り、特に疫病の流行しやすい時期である7月執執(旧暦6月)に祭事を行い、疫病退散・無病息災を祈願してきたのです。この素鵞神社は、昔からずっと現在地にあったわけではなく、もともとは大うばがてんのう宮地域姥賀地区の天王※にあったとされています。※天王118号旧道とバイパスの交差点の東側一帯の地域を指す。素鵞神社があったとされる場所には現在第十区公民館があり、地元の有志による石碑が建てられている。かつては祇園祭の神輿がここまで渡御した。▲素鵞神社▲素鵞神社があったとされる第十区公民館に建てられた石碑執執執執執そしてそれは、現在行われている祇園祭でも変わり執ません。込められた願いを意識することで、祇園祭の執執違った一面が見えるかもしれません。執執執執執執執執執執執執執執執執執執▲現在の祇園祭の様子執執参考文献執執大宮町史編さん委員会「大宮町史」1977、大宮町歴史民俗執資料館「大宮町の年中行事」2000、大宮郷土研究会「大宮執の地名」2010、株式会社吉川弘文館「年中行事大辞典」2009執執執歴史文化振興室緯52-1450広報常陸大宮24平成28年12月号