ブックタイトル商工会議所報ひたちなか 2016年12月10日号 No.153
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商工会議所報ひたちなか 2016年12月10日号 No.153
高野地区の昔話に弘法大師の話が残されています。弘法大師がお寺を建てようと各地を巡り、高野に来て四十八谷の霊場をを開こうとしました。高野地区には四十七谷しかなく一谷不足したので取りやめにし、紀伊の高野山に金剛峯寺を開いたというのです。しかし、高野地区には室町時代の一四九七(明応六)年に、現在の高野共同墓地東側に青龍寺というお寺が建てられました。江戸時代に描かれました「天保検地帳絵図」によると、本堂・仏堂・庫裡・山門などの建物が木立の中に散在したお寺であったことがわかります。境内には、美しい樹木をあしらい、井戸や心字型の池がありました。青龍寺は、約350年にわたり法灯を守り続けてきましたが、江戸時代の末に、水戸藩の天保の社寺改革により取り潰されて、廃寺となり、以後再興することはありませんでした。昭和60年に、当時の勝田市では、高野市営墓地と高野郷土の墓地との間に、新たな墓地の整備計画が持ち上がり、青龍寺があった場所を調査することになりました。その結果、本堂跡と思われる所からは礎石の下の根固めと思われる跡などを確認することができました。さらに心字池跡も調査することができ、池跡からは、礎石と思われる大きな石や陶磁器片、石仏(地蔵)、瓦片、古銭(寛永通宝)など多くに遺物が発見されました。池跡は、発見された規模の半分の大きさで、現地に復元することができました。門跡は検出できませんでしたが、存在したと思われる所に、絵図に描かれていたような立派な門を復元することができ、今も現地で見学することができます。(つづく・文中敬称略)心字池(しんじいけ)遺物出土状況復元された青龍寺山門天保検地帳の絵図面佐野地区~高野の青龍寺~語り部:鴨志田篤二さん(茨城県埋蔵文化財指導員)第8シリーズ6