ブックタイトル広報おみたま 2016年9月号 No.126
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広報おみたま 2016年9月号 No.126
22平成28年9月8日広報おみたま小美玉市の歴史を知ろう28小栗上野介と江幡祐蔵―万延元年遣米使節―嘉永六年(一八五三)、ペリー提督は、四隻の「黒船」を率いて浦賀に来航し、江戸幕府に開国を求めるアメリカ合衆国大統領の国書をもたらしました。翌年には、幕府が合衆国政府と締結した『日米和親条約』によって、下田と箱館が開港し、幕府の鎖国体制が終焉しました。以後、激動を幕末を迎えることとなります。ペリー来航からさかのぼること二十一年前、江幡祐蔵は、下吉影の地に造り酒屋を営み、俳人でもあった江幡昭眉の二子として生まれました。幼い頃から、郡方手代として紅葉組にいた大内與一郎の門人として学び、十七才の時には笠間藩士富田忠蔵の婿養子となりましたが、二十二歳の頃に離縁してしまいます。その後、祐蔵は、江戸に上り、二五〇〇石の旗江幡祐蔵の記念写真本である小おぐりこうずけのすけただまさ栗上野介忠順に仕えるようになります。安政五年(一八五八)、日米間の通商条約である『日米修好通商条約』の調印がなされました。この条約には、アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がありませんでした。二年後の万延元年(一八六〇)、日米修好通商条約の批ひじゅんしょ准書を交換するために、正使新にいみ見正まさおき興、副使村むらがき垣範のりまさ正を代表とする「万延元年遣米使節」がポーハタン号でアメリカ合衆国に派遣されました。その際、江幡祐蔵の主あるじであった小栗忠順も監かんさつ察で参加し、祐蔵も小栗の従者の一人として同行することが許されました。使節団一行は、品川沖でポーハタン号に乗船、横浜を出航後、ホノルルに寄港し、サンフランシスコに到着、太平洋を横断しました。その後、パナマを経由して、目的地であるワシントンに到着、二月九日(以下新暦)に乗船して五月十五日に到着する九七日間の船旅でした。五月十七日、ブキャナン大統領に謁えっけん見して批准書を手渡し、五月二十二日、批准書は交換され、当初の任務を果たしました。一行は、ワシントン滞在中の二十五日間にスミソニアン博物館、国会議事堂などを訪れています。六月五日、再び大統領に謁見、その後、国務長官より小栗ら使節三人には金メダル、随員には銀メダル、江幡祐蔵ら従者には銅メダルが贈られました。祐蔵に送られた銅メダルの表には、ブキャナン大統領の横顔と「JAMES BUCHANAN,PRESIDENT OF THEUNITED STATES」、裏面には、「IN COMMEMORATIONOF THE FIRST EMBASSY FROM JAPAN TO THE UNITEDSTATES 1860.」(日本からアメリカ合衆国への最初の使節団の記念として)と浮き彫りされています。ワシントンで大役を果たした一行は、ボルチモア、フィラデルフィアの東海岸の都市を訪問し、六月十六日にはニューヨークに到着しました。ブロードウェイのパレードでは五〇万人が集まり、空前の大歓迎を受け、六月二十九日にナイアガラ号で帰国の途についています。銅メダル(表)※1※2