ブックタイトル広報みと 2016年12月1日号 No.1395
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広報みと 2016年12月1日号 No.1395
水戸市の人口人口…271,089人(男132,907人、女138,182人)世帯数…119,075世帯-平成28年11月1日現在(平成27年国勢調査確定値基準)-【編集】みとの魅力発信課?029・232・9107029・224・5188kouhou@city.mito.lg.jp広報みと平成28年12月1日号第1395号【発行】水戸市?029・224・1111(代表)〒310~8610水戸市中央1~4~1日本遺産ものがたり―近世日本の教育遺産群―19世紀はじめは、日本近海に欧米船がたびたび接近し、幕府や各藩で緊張感が高まっていった時期である。やがて勃発する「鎖国か、開国か」という、国内を二分する争いにより、二世紀半にわたる〝徳川の平和〟が終わりを告げる時は、すぐそこまで迫っていた。こうした先行きが見えない時代に必要とされるのは、やはり教育である。これまで紹介してきたように、江戸時代はそもそも教育水準が高かったのだが、19世紀になってその教育熱は最高潮に達する。ほぼすべての藩で藩校が建ち、洋学・国学などを教える私塾も人気を博した。身分が低い武士や庶民が高度な教育を受け、その中から、水戸の会沢正志斎、江戸の勝海舟、薩摩の西郷隆盛・大久保利通、長州の桂小五郎、土佐の坂本龍馬など、広い知識と国際感覚を持つ優れた人材が生まれ、やがて来る幕末維新期の立役者となっていくのである。第9代水戸藩主の徳川斉昭も、教育の重要性を強く認識していた一人だ。斉昭は天保の改革と呼ばれる藩政改革を断行したが、その柱の一つが藩校の創設であった。日本最大の藩校・弘道館の建学である。それにしても、なぜ、江戸時代のはじめから教育に力を注いでいた水戸藩が、幕末になってようやく藩校を創設したのだろうか。実は、水戸藩では大日本史編さん局である彰考館が藩校の役割を担ってきたことから、藩校を創設する必要性が低かったという事情がある。弘道館建学にあたっては「彰考館があるので、藩校を建てる必要はない」といった反対意見も多かった。それでも斉昭は周囲の反対を押切り、水戸城三の丸の一等地にあった12人の重臣屋敷を移転させ、弘道館を建学した。天保12(1841)年のことである。あえて建学した理由は「藩を超え、国全体を舵かじ取りできる人材を育成する規模の学校を作るべきだ」という斉昭の信念によるものであった。つまり、日本の指針となる学校建設を目指していたのであり、その意味で、斉昭の構想は一般的な藩校の概念を超えていたのである。建学の精神「弘道館記」は、起草から4年もの歳月をかけて敷地中央に石碑として建てられ、弘道館のシンボルとなった。また「弘道館記」の解説文である藤田東湖著『弘道館記述義』は、幕末における尊王攘夷思想のバイブルとなり、幕末維新期の思想に大きな影響を及ぼした。こうして弘道館は、我が国の藩校の集大成として、また、次代を切開く新たなスタイルの学校として、全国に名を馳はせ、幕末随一の学校となったのである。水戸市歴史文化財課関口慶久弘道館の建学第9話日本遺産に認定された「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」の歴史的魅力を語る「日本遺産ものがたり」。今回のキーワードは「弘道館」です。日本遺産構成文化財旧弘道館(三の丸1)