ブックタイトル広報しろさと 2016年11月号 No.142

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概要

広報しろさと 2016年11月号 No.142

しろさと広報2016年11月16俳句短歌川柳ぎょうかいがんかいさんふくあんたかだいたけさだよしこうさぼうじとうぜんじぼふんきたけさかいよしあつこうごしゅきそうちゅうほうみょうぼんつだいごこうぜんこうごんじしごうけいだいぶんなだいしょぼかいさんちゅうこうたいこさんいんせいおんししじ「宝篋印塔」町指定文化財(史跡)ひとこ城里町の文化財さんぽ(一八)くさじらみきんもくせいほうきょういんとうきそじょうとび夕暮れて葱の匂へる河原畑飯田勇一朝露やしつとりと咲く紅芙蓉森静江秋の蝶久慈清流の風にのり綿引英子長電話握る木の実の温もれり鯉渕寿美恵新藁の残る陽の香に俵編む仲田まちゑ金木犀くしゃみの吾を見降ろせり寺門孝子大相撲千秋楽の苦い酒富田多蔵曇り日も輝くじい・ばあGG大会車田綾子秋雨や田んぼ一面ゴルフ場飯村孝一朝顔や隣りの垣根と知らぬ顔川原清長靴をあとは干すだけ草虱竹内幸子晩秋や細長き吾が夕陽影今瀬多代美晩秋の太陽ダムに映りけり飯村昭子母と嬰の赤ちゃん体操天高し瀬谷博子紅白の玉入れやっと運動会岩下金司まくなぎに簗の瀬音の立ちのぼる田口勝元ポットには氷水いれ畑まで持ち来る夫の優しさ染みる薗部光子めくるくせめくるくせつく短歌本心はれ晴れ生きてるあかし富田欽子職員が十七万のトップなり小池知事なる素晴らしき女山形式妙音ありて空にはじける遠花火祭りの夜の闇深みゆく枝不美切り通しの路に咲きたる白萩にふるればこぼるいとしき花よ島愛子新米をたくさん頂きありがたし甘き香のする朝の食卓坪井きよ子懐しき故郷想い遥かなる星空も見ゆオカリナの音色に萩谷登喜子秋たけて鮭の遡上する那珂川に鳶数羽舞ふゆったりと舞ふ冨田佐智子敬老の日のお便りを頂きぬ病ひなき身の有がたきかな杉山みちこ快よき疲れに夕餉の仕度せり日暮まで庭の草引きをりて渡辺千紗子リオの地にオリンピックは開かれて民族衣装も華やぎを添ふ大森久子玉音を聴ひて過ぎにし七十余年八十七歳にして今を生かさる青栁京子仏像を彫りゐし夫は仲間達と山形、宮城の寺々巡る所美惠子清音寺境内にある町指定文化財「宝篋印塔」は、向かって右から「菩提佐竹貞義公」、「開山復庵禅師」、「開基佐竹義敦公」の墳墓塔と伝えられています。塔は、形態の特徴から南北朝時代のものとされ、材質は凝灰岩で、高さは一四〇センチメートルほどです。菩提の佐竹貞義は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で、当時常陸国北部を支配していた佐竹氏の九代当主です。足利高氏(尊氏)の倒幕軍に応じ、その功により常陸守護に任じられ、以後歴代の佐竹氏当主が常陸守護職を務めることとなりました。開山の復庵禅師(復庵宗己)は、常陸国に生まれ、中国に渡って中峰明本の法流を嗣ぎました。帰国後、東国各地で布教に努め、没後、後光厳上皇から大光禅師の諡号が贈られました。城里町の名産である古内茶も、元々は復庵が当地にもたらしたものと伝えられています。開基の佐竹義敦(義篤)は、佐竹氏十代当主です。文和元(興国六・一二五二)年に、復庵禅師を招いて、父佐竹貞義の菩提所として清音寺を中興開山し、寺号を太古山獅子院清音寺として臨済宗に改宗しました。義敦は、没後、この地に葬られ、以後、清音寺は佐竹氏の菩提所として繁栄しました。なお、義敦の子どもたちは、小場氏、石塚氏、大山氏等となり、城里町内とその周辺に佐竹氏の勢力を拡大しました。解説文/町文化財保護審議会会長小山映一問合せ教育委員会事務局?029-288-3135指定年月日/昭和四七年一二月二七日所在地/城里町下古内管理・所有者/清音寺町指定文化財(史跡)「宝篋印塔」城里町の文化財さんぽ(一八)ほういんとうきょう