ブックタイトル広報しろさと 2016年10月号 No.141
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広報しろさと 2016年10月号 No.141
しろさと広報2016年10月14▲伊藤益荒・斎宮自刃の碑俳句短歌川柳だたかやまそんのうじょういよしながひぜんしまはらかこうぶんきゅうじげんさいごうちのべいけしもつけのくに「伊藤益荒・斎宮自刃の碑」町指定文化財(史跡)いとうますらとく城里町の文化財さんぽ(一七)いつきじじんひおしよせぎくちなしありあけおまごつまほとりこしんみょうがぢでき秋涼し朝の舟みな湖心向き仲田まちゑ爽やかや挨拶交す登校児今瀬多代美風止んでコスモス自分の色となる鯉渕寿美恵コスモスの風爽やかに海遥か綿引英子向日葵の花どこまでも遠筑波飯村昭子当てずっぽう五輪予算の乱高下富田多蔵稲穂まで腰を曲げてる高齢化飯村孝一城里に生れて米寿ただ感謝川原清蕎麦の花棚田の水車廻る音森静江食べる分親指ほどの茗荷の子竹内幸子まとひつく光のまぶし台風過瀬谷博子校庭の教えの像にてる残暑岩下金司大粒の雨は白刃に残暑かな田口勝元湯の宿の店に地出来の梨子の山寺門孝子山間路を廻りて行けば猪の被害大きく電柵目立つ薗部光子どんな日もどんな人にも思えやりいつの間にやら天国暮らし富田欽子新緑の中に梔子の白き花やがて紅き実なるを待ちをり所美惠子黙とうをしつつ思えり少女期の戦禍におびえ暮らせし日々を枝不美雨戸を開れば有明の月裏山にひぐらし鳴きて朝は来たりぬ島愛子はなれ住む一人住まいの男孫より吾の老いの身気づかう電話坪井きよ子生きていれば喜寿の祝と亡夫に香焚く息子パパッ子なりし萩谷登喜子対岸にあかり灯りて弟を偲ぶ初七日牛久沼の辺冨田佐智子前向きに生きよと吾を諭しをり好奇心もて健康であれ山形式妙トウモロコシ作ればカラスにつひばまれ網をかぶせて実入り楽しむ杉山みちこ道の駅に売られゐる野菜その中に友の名ありて迷はず選ぶ渡辺千紗子汗しつつ草ひき居れば湧き上る夏曇追ふて空を見上げり大森久子寺訪えば慈悲の目差し六地蔵赤いお帽子やさしいお顔青栁京子城里町小勝の高田山山中にある「伊藤益荒・斎宮自刃の碑」は、この地で亡くなった尊王攘夷の活動家を弔ったものです。伊藤益荒(嘉融)は、肥前(長崎県)島原藩士で、弘化元(一八四四)年に島原藩の江戸屋敷で生まれました。文久三(一八六三)年に江戸を脱出して京都に上り、尊王攘夷運動に奔走しました。伊藤斎宮は、高崎藩の人といわれ、益荒とは同志として最後まで行動を共にしました。二人は、尊王攘夷の実行を求めて元治元(一八六四)年三月二七日に筑波山で挙兵した天狗党に参加しました。天狗党は、日光東照宮参拝や太平山占拠の後、再び筑波山に戻りますが、七月二四日には山を下り、天狗党本隊は水戸城奪回を目指して進攻しました。益荒ら他藩出身者は、横浜を目指して潮来から鹿島に入りましたが、幕府軍の攻撃を受け、九月七日には西郷地(小美玉市)に退却。ここでも幕府軍の攻撃に遭い秋雨の中を敗走。九月八日には、池野辺から大橋村(共に笠間市)に至り束の間の休息。ここから、各々分散して下野国(栃木県)を目指すこととなりましたが、九月九日、益荒と斎宮は高田山の藪の中を潜行中に笠間藩兵に発見され、自刃して果てました。後年、旧小勝村民により自刃の碑が建立され、現在も「お天狗さま」として押寄木自治会が祀っています。解説文/町文化財保護審議会会長小山映一問合せ教育委員会事務局?029-288-3135指定年月日/昭和五八年三月三一日所在地/城里町小勝管理・所有者/押寄木自治会町指定文化財(史跡)「伊藤益荒・斎宮自刃の碑」城里町の文化財さんぽ(一七)いとうますらいつきじじんひ