ブックタイトル広報なか 2016年10月号 No.141

ページ
8/26

このページは 広報なか 2016年10月号 No.141 の電子ブックに掲載されている8ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

広報なか 2016年10月号 No.141

このように、江戸時代には広く民間にも文武両面にわたっての教育が普及していたことがわかります。これら庶民の営みが、明治維新以降の近代化を担う大きな力になっていたことを考えると、歴史の進展に寄与する教育の力の大きいことを再認識することができます。また、その師弟間には篤い信頼関係・情愛の念が強く流れていました。多くの門人たちは、師のためにと相は謀かり、謝恩の意を込めて「寿蔵碑」を建てています。実に驚嘆に値することです。市内にあるこれらの教育遺産群に思いを馳せつつ、明日の教育、地域づくりに邁まい進したいものです。富田兵左衞門は、9歳のときに鴻巣の奈治原民部の門に学んで和漢の学に通じました。加えて、杖術・柔術・弓術・剣術にも達し、後に帝国尚武会に入って師範の証を受け、よく青年子弟を指導し「棒の兵左衞門」「柔の兵左衞門」との異名で語りつがれていました。兵左衞門の寿蔵碑「兵左衞門富田先生碑」は、754人の門人たちが相は謀かって建立したものだけに頗すこぶる大きく立派なものでした。飯田中島の共同墓地にありましたが、現在は解体整理されています。水戸藩の医師では基礎医学を開いた原南陽、全身麻酔薬や人痘接種法の修得に貢献した本間玄調が名高く、それらの影響を受けて医術を修めた者に北酒出村の長山頼綱・頼明・行頼の親子三代がいます。行頼の子行秀は、額田村の原好誼軒と交流を持ち、藩の表医師となっています。鴻巣村の会沢寿量(字あざなは寿貞)は、水戸藩の侍医本間道偉に学び、門弟を養成しています。その医術は優れて、患者は門前に市をなしたといわれました。その医術の精妙をもって郷校野口時じようかん雍館の世話役も務めています。その子寿貞徳善も藩医本間謚しに就いて医術を修め、幕末の藩内抗争では負傷の藩士たちの治療に当たっています。このほか、飯田村の長谷川友哉・有節父子、横堀村の川又貞淳、堤村の若葉周圭(沢畑武夫)、南酒出村の後藤養節、下江戸村の堀口玄門、額田南郷の寺門玄雄らがいます。医術にかかれない庶民の治療として本草学(薬草)が普及しており、水戸藩医原南陽の門人の一人で小目村(常陸太田市)出身の木内玄節がいます。この薬草などによる那珂市域にあった家伝の妙薬を紹介して終わります。下江戸村齋藤家の家伝薬「香砂平胃散」「香砂平胃丸」、鴻巣村高畠家「とげぬき散」、飯田村小田倉家の「人参五香湯」と鹿島村海野家の「人参五香湯」、額田村鈴木家の「たまご薬」と原家の「たまご薬」、飯田村小林家の「神麝丸」「銭氏白術散」などが知られています。歴史民俗資料館だより問い合わせ?297-0080芳野村鴻巣の後藤三之助は、吉岡流・浅山流・藤山流を合流した為我流を平野又左衛門の弟子沢幡忠蔵や沢幡林助から教えを受け、明治27年(1894)に師匠として流派を譲り受け、自宅に道場を開いて近隣の子弟の指導に当たりました。後藤家には「相伝の際は親兄弟といえども他見他言は無用にて取り組みは人に見せないように」「師匠の恩を忘れ新流を取り始めた場合は、7代にわたって罪を掛けられること」などを誓った『為我流和神文』があります。また、後藤家所蔵の門人一覧には芳野村鴻巣の高畠清吉、津田繁之介、宮本貞吉、吽野保之介、細谷潤一郞、海野末吉ら、同村飯田の平松満次郞、横山傳左衞門ら、同村戸崎では小林豊之助ら、さらに村域外にも南酒出や木あぼっけ葉下などからの入門者など全員で27人が載っています。歴史民俗資料館?297・0080問い合わせ後藤三之助富田兵左衞門知意▼『為我流和神文』後藤和己氏所蔵▲門人一覧まとめ医術面▼「薬箱」会沢貞美氏所蔵8