ブックタイトル広報なか 2016年10月号 No.141
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広報なか 2016年10月号 No.141
会沢伊三郞は後台新地の人、諱いみなは主膳、壮年から棒術に関心を深め、佐野村(ひたちなか市)の沼田伊兵衛に就いて無比流棒術を学ぶこと数年、日々修行を怠ることなく、たちまちにしてその免許を得ました。性格は朴直にして度量があり、人に接するに謙譲の美徳をもって親しみよく指導にあたり、その門人は200人を超えるほどでした。明治33年(1900)4月に弘道館で行われた茨城県武徳会支部総会において、総裁小松宮彰仁親王の上覧の際にはその妙技を披露し、高く評価されました。明治41年(1908)2月、門人たちが相は謀かって寿蔵碑「頌しょうとく徳」を新地共同墓地に建立しましたが、主膳は明治42年3月に歿ぼつしました。会沢伊三郞主膳鈴木長左衛門問い合わせ?297-0080鈴木長左衛門、諱いみなは惇義、後に長左衛門と改めます。寛政8年(1796)5月に誕生、天保4年(1833)から同7年まで後台村の庄屋を務め、明治元年(1868)11月、73歳で病歿ぼつし村内の鈴木氏先せんえい塋の墓に埋葬されました。長左衛門は幼少より読書を好み、青柳村(水戸市)鹿島香取神社の神官小川伊織(子息は修理)に就いて学びました。常に読書に励み、性格は実直、物欲は少ない方でした。無駄な議論や遊びごとといえどもよく相手となり、近隣の子どもたちを教え導きました。能弁ではありませんが、粘り強く諄じゅんじゅん々と説き続け、その教えはしみじみと心にしみたものでした。その門人は、子息の義重や世話人を含めて118人にのぼります。明治4年(1871)11月、門人たちは長子の義重と相談して謝恩の碑を建てました。撰せん文は弘道館で教授した後、木倉小学校にも勤務した塙正脩です。門人のほとんどは周辺の人々ですが、その中に女性も入っています。当時の学習意欲を窺うかがうことができますので、台石に刻銘された門人名をあげておきます。鈴木次郎左衛門敏信、井上四良平、鈴木源衛門、海野傳吾兵エ、三田寺彦十、塩埜弥吾良、小森常エ門、石川伊之太良、鴨志田次良平、海埜長次良、會沢与志兵エ、同太三良、増子平蔵、井上元エ門、石川庄兵エ、大和田長四良、廣瀬左吾良、井上藤次兵エ、後藤熊吉、寺門亀吉、小嶌新吾、山田八良エ門、石川吾良兵エ、三田寺久エ門、鈴木重エ門、海埜長兵エ、井上久三良、鴨志田四良エ門、同口市エ門、鈴木平吾良、三田寺清介、井上弥八、同初太良、同長七、高野太兵エ、鴨志田千代吉、同清兵エ、井上元十、同子之吉、鈴木治惣冶、井上宗七、鴨志田栄十、三田寺猟之介、井上庄蔵、同与吾平、小林新エ門、井上与左エ門、松田貞介、山田与惣エ門、同八五良、松田卯之松、軍司幸七、礒崎惣吾良、鴨志田甚エ門、同宗吾良、同長吾良、石川秀松、大曽根清七、塩野新十良、同勘三良、塩野口之口、會沢卯之吉、鈴木兼太良、鴨志田才太良、同右馬治良、海野安エ門、井上新四良、鴨志田平四良、井上午治良、塩埜春吉、廣瀬佐一エ門、井上未治良、同熊治良、寺門惣治良、海埜源之介、鈴木惣七良、三田寺房之介、同勘之介、綿引三良エ門、同初太良、井上寅吉、同捨吉、鴨志田口治良、廣瀬藤三良、同巳之吉、鴨志田留吉、鈴木真治良、同熊吉、鴨志田仙治良、井上三之介、鈴木泉二良、鈴木秀吉、同口治良、廣瀬おいき、鈴木おつき、海埜おとく、鈴木おひて、三田寺おそよ、鈴木おあき、會沢おやを、鈴木おすて、會沢おあき、鈴木おいし、三田寺およし、鴨志田おみよ、鈴木おくら、同おわくり、同おゑい、鴨志田おみき、海埜傳之允、鴨志田茂エ門、廣瀬藤七、三田寺四良介、山田七良、會沢郡之允、塩埜弥一兵エ、井上藤兵エ、鈴木惣兵エ敏行このほか、寺子屋を開いた者に、福田村春日神社の神官今瀬清珉、後台村鹿島三島神社の神官小圷雄之進、額田村の鈴木一之允、同村鱗勝院の慧けいくう空和尚らがいます。家塾を開いた者に、南酒出村の修験で般若院を開いた本多清剣や同村の沢田剛蔵、額田村の助川千之允、菅谷村の根本静雄らが出ています。また、文芸・芸能仲間としては額田の中嶋五峰らを中心とする俳諧、および絵画・長唄仲間もありました。広報なか10月号7