ブックタイトル広報なか 2016年10月号 No.141

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概要

広報なか 2016年10月号 No.141

水戸藩の和算は笠原水道を設計した平賀保秀に始まり、やがて関孝和の「関流」が藩内に広く流行しました。農村部では額田村の原敬敦、福田村の高橋重輔らが和算家として知られています。高橋の弟子に南酒出村に和算塾を開いた石川清助貫道がいます。増井村(常陸太田市)の本多家から安政年間に南酒出村石川家の養子となりました。若いときから足が不自由で農作業も困難であったため、和算にかける情熱は盛んなものがありました。門人は地元南酒出村の51人をはじめ、横堀村3人・額田村23人・菅谷村10人・門部村9人・北酒出村7人、鴻巣村6人など大勢に上り、さらに大戸村(茨城町)には12人、また久慈、多賀、鹿島の各郡へは出張教授も行っています。門人総勢は200人を超え、その盛況ぶりは連日30人を超えたといわれています。明治6年(1873)には北酒出・南酒出両村設置の深耕小学校で数学の教員となります。門人の高弟には南酒出村の桐原好道・片岡亀吉・桐原舎道・袴塚巳之松・袴塚忠之助、菅谷村の平野又衛門、鴻巣村の津田盛遥らがいます。やがて門人ら一同が相談し、南酒出蒼龍寺境内石川家墓地内に「関流八傳故石川貫道先生墓」を建てています。また、前述した南酒出村の門人桐原好道・片岡亀吉・桐原舎道ら3人もそれぞれに私塾を開き、その門人たちが師匠への謝恩の墓碑を建立しています。南酒出地域においていかに算学が盛んであったかを示しています。なお、和算仲間には、研究した問題と解答を「額」にして神仏に奉納し感謝する習慣がありました。明治14年(1881)、石川貫道を願主として高弟26人が静神社に算額を奉納しています。水戸藩の弘道館は「文武両道、学問事業その効を殊ことにせず」を教育の基本に置いていました。さらに医学や天文学なども加えた総合大学の性格を持っていました。後編では、和算の普及と武道方面についてまとめました。武道については、武士は剣術・剣道・砲術でしたが、水戸城下周辺の村々には無比流棒術や為我流柔術が盛んに広がりました。その武道には多くの免許皆伝を受けた者が出ています。その主な武術とその師匠を紹介してみます。また、これまでの市史編さん関係本に漏れていました、後台村の寺子屋師匠「鈴木長左衛門」についても補っておきます。このたび水戸市の田口誠二氏からご教示をいただいたものです。菅谷寄居の又左衛門は為我流柔術の免許皆伝であり、「その術神のごとし」と伝えられ、その門人は幕末から明治期にかけて1000人を超えています。那珂市域には菅谷村の91人、鴻巣村の39人、門部村の35人をはじめおよそ260人にのぼりました。その内、指南免許を得て道場持ちとなり、明治期に入って活躍した者に、門部村の鈴木藤兵衛重則・勝山治介信道・楠見要之允、飯田村の富田兵左衞門知意、菅谷村の砂押兵次郎重春・飛田文五郞源重、鴻巣村の沢幡忠蔵好洋らがいます。又左衛門82歳の晩年にあたる明治15年(1882)、門人らが相は謀かって寿蔵碑「報ほうけつとく厥徳」(厥その徳に報いる)を寄居共同墓地内に建立しています。歴史民俗資料館だより那珂市の教育遺産群(後編)「私塾と寺子屋」25平野又左衛門重義和算普及の祖となる石川貫道水鳥6