ブックタイトル広報 常陸大宮 2016年9月号 No.144
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広報 常陸大宮 2016年9月号 No.144
常陸大宮市? ? ? ? ? ?~明治の合併後の下小川村~◇明治の大合併と下小川村やわらく明治22年(1889)4月1日、久慈郡家和楽村、久りゅうさいがねもりがね隆村、西金村(現大子町)、盛金村(一部が現大子町)が合併して、久慈郡下小川村が誕生しました。かじはたながぬきこのうち家和楽村は、梶畑村と長貫村が天保13年(1842)に合併してできた村で、盛金村は同年に下小川村から村名を改めたものです。こうして4か村が合併し、江戸時代に使われていた「下小川村」という名称を再び村名として用いました。下小川村の中心は西金(現大子町)でした。西金は、水戸と奥州を結ぶ南郷道と久慈川が南北を貫き、交通や物流の要地として江戸時代から宿場が形成されていました。西金地内の湯沢温泉は、戦国時代の大永2年(1522)の開湯と伝え、年間五千人の湯治客があったといわれています(国立国会図書館蔵『北郡里程間数之記』)。大正15年には、水郡線西金駅が開業して交通の便も良くなり、西金の宿通りには村役場や郵便局、駐在所、尋常小学校、信用購買組合などが置かれました。初代村長は西金の小室吉十郎が務め、当時の常住人口は3,074人、戸数は591戸でした。▲下小川村役場跡地(現西金集会所)欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝◇昭和の合併と下小川村戦後、地方自治体の行政効率向上のため、昭和28欝欝年に町村合併促進法が3年間の時限立法として施行欝されました。これにより、昭和29年3月に茨城県は欝欝合併の範囲を示した計画案を提示し、町村で検討が欝進められました。現在の大子町域を含む久慈地方事欝もろとの欝務所管内では、下小川村、上小川村、諸富野村の3欝か村合併案と、大子町、佐原村、宮川村、袋田村、欝欝生瀬村の1町5か村案がそれぞれ提示されました。欝下小川村は3か村合併の県案を支持していました欝欝が、上小川村が大子を含む保内郷一円1町8か村の欝合併を主張し、諸富野村が山方町との合併を決定しVol.12たことにより、下小川村も保内郷一円合併に向けて再検討することになりました。しかし、対等合併か吸収合併かで紛糾し、一円合併は停滞してしまいます。この間、昭和29年11月から12月にかけて、家和楽、盛金、久隆地区からは山方町への編入を求める陳情書が出されました(写真)。昭和30年1月には、山方町からの呼びかけに下小川村が応じる形で合併協議会が立ち上がりましたが、村民の間では、山方町との合併に賛成する家和楽、盛金、久隆地区と、それに反対する西金地区で意見の対立があり、村議会でも合併案の議決とその取り消しが相次いで行われ、裁判所で争われる事態になり、村政は著しく混乱しました。▲下小川村合併関係史料(当館蔵)しかし久慈・那珂の両地方事務所の調停により、2月22日には、西金の全部と盛金の一部(字大内野、字上原、字黒丸)を分村合併することで決着をみました。この結果、分村となった下小川村の山方町編入と大子地方一円合併が昭和30年3月31日付で施行されることになったのです。山方町編入後は、盛金地区に下小川支所が置かれました。場所は下小川橋の西、久隆へ北上する道の角だったそうです。▲山方町役場下小川支所跡地(市内盛金)【参考文献】塙泉嶺『久慈郡郷土史総論』宗教新聞社大正13年、茨城県町村会編『茨城県市町村要覧』昭和32年、『大子町史通史編下巻』平成5年文書館?52-0571広報常陸大宮24平成28年9月号