ブックタイトル商工会議所報ひたちなか 2016年9月20日号 No.150

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概要

商工会議所報ひたちなか 2016年9月20日号 No.150

当時は番人がいた踏切を渡ると金物雑貨の店があり、その商店街は「踏切通り」と呼ばれ、仕立屋、豆腐屋、車屋もあり、そば屋の前には銀杏の大木と明治40年に建立された招魂社、そして職人の太子講である聖徳太子碑、脇には小貫山区の不動尊があった。5月1日の高野地区の石尊祭りには各地区の山車が3台境内に並び、芸者衆は鳴物入りで唄や手踊りを披露し、神輿を担ぐ若い衆は、ワッショイワッショイと不動尊あたりまで来ると疲れて神輿を投げ出してしまう。老舗の店舗では、縁台に酒肴を出して振る舞い、その労をねぎらった。街並みは、薬局、葬儀店、蹄鉄屋、青果店、そして酒屋の前にはバス停があり、赤い小旗を出しておくとバスはお客を乗せていく。正月には大売出しの抽選所となり、1・2等が出ると鐘を鳴らしミカンを撒いていた。桶屋の隣には自動車屋があり、ハイヤー貨物自動車ガソリンスタンド等を業としていた。隣には下駄屋、金物屋、青果店があり、脇の路地を入ると大正15年開業の劇場「喜世水館」があり、芝居やレビュー、活動写真等が行われ、木戸銭の木札で中に入ると、客席は薄縁敷で、舞台の幕には町内の商店名が書き連なっていた。正面のスクリーン脇には楽士が楽器を奏で、弁士が声色を使っていた。花道に沿って客席があり、舞台裏の楽屋には住居設備も整っていて、コの字型の2階席入口には下足札が掛けられ貴賓室も設けられていた。興業が掛かると、役者達は衣装をまとい、「町廻り」と称して旗を担ぎ三味線や太鼓を打ち、村の辻々で口上を述べ興行を知らせ廻っていた。劇場入口の「カフェーきよ川」の常連たちは、そろいの衣装を羽織り、各地の盆踊り会場を踊り廻っていた。踊り提灯には、「カフェーきよ川」と書き入れて。通りは、鍛冶屋、唐箕屋、料理屋、精米所、小間物屋、医院、そして大きな石倉が並ぶ肥料店、その先には繭糸紬ぎ所があった。往還は緩やかに左に曲がり、馬渡、湊へと向かう。その昔、湊の海で採れた海産物は馬車に積まれ、その往還で佐和駅に運ばれ各地に送られていった。その馬方たちの休息所には、居酒屋、そば屋、商店ではお茶を振る舞い、菓子や日用雑貨を買い求める人たちで賑わっていた。その賑わいも大正2年に湊線が開通、6年頃から湊駅より、三浜の海産物が出荷されるようになった。酒屋の爺さんは、あの頃の往還は魚の鱗で光っていたっけなーと。昭和12年、商店主たちは、商工業実業団を結成し村会議員川崎金五郎氏を選出、駅前地区の行政独立を働きかけるも願いは届かなかった。(つづく・文中敬称略)佐和駅周辺“踏切通り”(昭和7~8年頃)昭和9年の湊線の時刻表(当時は1日2本水戸駅にも乗り入れていた)役者たちは衣裳をまとって「町廻り」昭和27年頃の“踏切通り”佐野地区~佐和駅付近の今昔2~語り部:池ノ辺大蔵さん(鮨いけのべ)第7シリーズ6