ブックタイトル広報なか 2016年9月号 No.140
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広報なか 2016年9月号 No.140
周すおう防(山口県)を祖先の地とする大内氏の子孫で、鴻巣村根城内に生まれました。初名は重兵衛、諱いみなは仁寿、字あざなを子徳・鴻峯とし、鷲山と号しました。幼少より学を好み、宝幢院の修験奈治原如清に師事し、さらに文政6年(1823)4月から文政10年5月まで儒学を中心に研究を深め、天保期(1830~1844)から私塾を開設して子弟教育に努めました。碑文には、「先生、神儒を尊び、常に賓客を喜び、暇あるごとに読書す。月の夕べ、花の晨あしたに詩を吟じ、邸宅その美を好まず」と称たたえられています。明治の学制公布に当たっては、私学開業を願い出いで、明治6年(1873)7月に官許を得て私塾を開校し、それに時習舎あるいは鴻学舎と名づけました。「鷲しゅうざん山大内先生之墓」の碑は、鴻巣の木戸共同墓地内にあります。歴史民俗資料館だより安崇は文化5年(1808)3月に生まれた古徳村の神官(祝はふり)で、文久元年(1861)に54歳で歿ぼつしました。古徳と静の村境近くに藤田屋敷と称する一郭があります。この寺子屋で教えを受けた者には、静村の黒沢忠治・黒沢久米八や門部村の金沢孫兵衛のほか、小場村(常陸大宮市)の安藤東之進や盛金村(大子町)の上久保源次兵衛、西金村(大子町)の河井孝四郎、八田村(常陸大宮市)の鈴木才介などがおり、墓碑の台石には周辺の村々からの門人84人の名が刻まれています。碑は、文久元年(1861)11月に建立されました。鴻巣村鷲神社に隣接する宝幢院の修験であった如清は、寛政期(1789~1800)に塾を開き、門人は鴻巣村の115人、飯田村の55人、戸崎村の15人、門部村の12人、中岡村の11人などを含む235人をはじめ、近郷の上圷村(城里町)や野口・下岩瀬・岩崎(常陸大宮市)、上国井(水戸市)などの各村を含めて400人超といわれました。そのうち、女子は鴻巣村が6人、飯田村でも4人いました。盛りのころは、集う門人は日に数十人の賑わいであったといわれます。天保5年(1834)80歳で歿ぼつしました。主な門人には中岡村鹿島で寺子屋を開いた海野英彦、額田村鈴木市十郎の子孫世美(梅岡)、菅谷村庄屋で山横目の横須賀勘兵衛、飯田村庄屋大和田源衛門、鴻巣村で私塾を開いた大内仁寿、戸崎村庄屋綿引清三郞、上圷村神官今瀬織部などがいます。一方、民部(字あざなは斐ひゆう雄)は馬頭村の修験に生まれ、如清の養子となって文政3年(1820)22歳で後を継ぎ、天保15年(1844)に飯田村と戸崎村の鎮守の神官となりました。その間、鴻巣56人、飯田50人、戸崎27人、門部7人・南酒出2人など142人を含め、近郷近在からの門弟は265人を数えました。このうち、女子は鴻巣村で1人、飯田村で3人いました。門人の中には飯田村庄屋大和田源衛門・貞蔵父子、兼帯庄屋青山四郎、修験・神官となった小田倉祐貞、無比流杖術・為我流柔術指南富田兵左衞門、飯田村長となる大和田兵四郎、芳野小学校初代校長となる大和田貞勝、芳野村初代村長となる宮本逸平らがいます。明治3年(1870)、72歳で歿ぼつしました(墓は整理撤去されています)。飯田村に生まれ、三極院を称しました。諱いみなは祐貞、字あざなは秀勢、号は椿庵です。元は大和田氏で水戸藩附家老中山氏に仕え、その後修験であった小田倉姓を継いでいます。また、藩主斉昭の追鳥狩など軍事訓練では遊撃隊員として活躍しました。明治元年(1868)の戊辰戦争の最中、水戸藩内はまだ天狗・諸生の抗争が続いており、祐貞は諸生派に属して一時会津藩兵とともに官軍と戦いながら出羽・越後方面を迷走、8年の歳月を送り帰郷しました。その後、家塾「三極院」を開いて周辺のひとびとの指導に当たる一方、衛生委員や村会議長を務め、明治26年(1893)2月9日に70歳で歿ぼつしました。「椿庵翁之墓」は明治28年の建立、撰せん文は元水戸藩士で文化大学教授も努めた内藤耻ちそう叟です。○奈治原如じょせい清・民みんぶ部父子○大内常衛門仁寿○藤田安あんすう崇○小田倉祐貞6