ブックタイトル広報なか 2016年9月号 No.140
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広報なか 2016年9月号 No.140
諱いみなは宗邦、三島神社の神官海後大和宗辰の子です。幼少より読書を好み、長じて父の後を継ぎました。文政・天保時代には好学の理由により、藩から褒賞を得ています。いつから子弟教育に入ったかは明らかではありませんが、門人は地元本米崎の者が大多数で、墓碑には50数人の名が見えます。桜田門外の変に参加した海後磋さきのすけ磯之介宗親は、その4男です。額田村の人。幼少から学を好み名声は近隣に聞こえていました。庄屋職を辞し、江戸に出て紀州藩士の榊原元軌に師事しました。帰郷後は、詩歌を中心にさらに指導に専念しました。四方から雅客墨人が来訪し、教えを受けています。明治9年(1876)、藤兵衛73歳の時、門人たち300人が鱗勝院境内に謝恩の念をもって寿蔵碑「照郷根本先生墓」を建立しました。○原好こうぎけん誼軒邦明▲鈴木梅岡画「原好誼軒」提供:原公史氏○根本藤兵衛照郷○山田京山問い合わせ?297-0080私塾・寺子屋の指導者○海後山城▲三島神社号は好誼、額田村の人。安永4年(1775)白羽村(常陸太田市)の渡辺家に誕生し、19歳のときに額田で家伝の卵薬の製造販売もしていた原重光に請われて養子となりました。地理学者長久保赤水の門人であった太田の立川淳美に師事して学問修業に努め、真しんそつかい率会を組織して「孝経」「論語」を講義し、人としての道徳や婦人の道を指導しました。また、お茶や汁物だけの質素で純粋に学問に励む講座「汁しるこう講」を行い、質素倹約を奨励しました。「占春亭」と名付けた書斎には近郷からの子弟が集い、その数は100人を超えました。好誼軒の晩年、嘉永5年(1852)に門人たちが相謀はかって原家の菩提寺である引いんじょうじ接寺内に寿じゅぞうひ蔵碑(生前に本人の生涯を記して建てるもの)を建立しています。好誼軒は貴重な「占春亭日記」などを残していますが、「豊ぶんご後の国二孝女天保14年(1843)9月西木倉村に生まれ、諱いみなは義質、通称は強介。長らく水戸藩士矢口氏に就いて和漢の学を修め、後に家塾を開きました。書画や詩歌をよくし、ことに俳句では名吟口を衝ついて出で、常に同行の点者となりました。問われれば詩を詠み、胸襟を披ひれき瀝して吟唱飽あくことを知らなかったといわれます。それにより、師匠の遅月より宗匠の資格を得たこともあって、明治31年(1898)に雪華庵京山と号してますますその道に邁進し、その門人は500余人にのぼったといわれます。大正5年(1916)に73歳で歿ぼつしました。門人一同は相謀り「報恩、山田京山先生之碑」を西木倉原ノ内の山田家先せんえい塋の地に建立しています。物語」にも関係しています。遠く豊後(大分県)から親鸞聖人の遺跡を訪ねてやってきた父親が、病に倒れて青蓮寺(常陸太田市)で世話になっていることを知った二人の姉妹が、さまざまな苦難を経ながら迎えにやってきました。この親子が帰郷するに当たって、大勢の村人が見送りますが、好誼軒も、かつて水戸藩主も愛めでたことのある自宅庭の栗の実を、孝養の供えにもと贈りました。栗は苦離・旧里(久里)を意味するものであり、さらに「遠く父を旧里に伴い、神仏の助けによって離苦得楽の時もあるであろう。父子ともに彼の国に帰って孝道を尽くせることを期待します。」と記した上で、『東あずままで薫かおりこぼして豊ぶんごうめ後梅』と詠んで贈っています。広報なか9月号5