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概要

広報なか 2016年9月号 No.140

江戸幕府を担った幕臣たち子弟の教育は、上野の「昌平坂学問所」(後に昌しょうへいこう平黌)で行われました。諸藩では、藩校を建立して子弟の教育がなされました。しかし、水戸藩の藩校は9代藩主斉昭の時代、天保12年(1841)の「弘道館」建設まで待たなければなりませんでした。『大日本史』の編さんをはじめ文教政策に熱心であった2代藩主光圀は、藩校の建設には及びませんでした。それは、編さん事業の推進が大きな理由であったと思われます。しかし、教育は編さん事業の拠点であった「史館(彰しょうこうかん考館)」での「史館講釈」や太田御殿での「馬場講釈」などが行われていました。加えて編さんを行う学者たちも、森もりげんじゅく儼塾などのように水戸城下に私塾を開いていました。中期からは、城下の八幡小路(田見小路)に朱しゅしゅんすい舜水を祀まつる舜水堂が建てられて「舜水堂講釈」も行われました。水戸藩としての学校建設は、文化元年(1804)に小川(小美玉市)に設けられた「稽けいいかん医館」とよばれる郷ごうこう校が始まりです。その後は、同4年(1807)に潮来の「延のぶかた方学校」が設けられ、そのおよそ30年後には、湊(ひたちなか市)に「敬けいぎょうかん業館」が開かれ、さらに太田に「益えきしゅうかん習館」、大久保(日立市)に「興芸館」(後に「暇かしゅうかん修館」と改称)、野口(常陸大宮市)に「時じようかん雍館」と次々と郷校が建設され、周辺村々の庄屋・組頭およびその子弟たちが勉学に通いました。そのほかには、村々の庄屋・組頭や僧侶・修験・神官たちが寺子屋・家塾を開いて近隣の子弟の指導に当たっていったのでした。江戸時代から明治初期にかけての農村での教育は、僧侶や神官・修験などが師匠となって読み・書き・そろばんを教えました。これが寺子屋教育であり、教え子は寺子と呼ばれました。戦国時代末期に、寺院で武士や町家の子弟を教育したことに源流があるので、後には寺院以外の塾も寺子屋といいました。主な教科書は「庭ていきんおうらい訓往来」「実語教」「女今川」「書簡文」などで、それらの素読、暗記、書写を中心とする初歩的な教育でした。また、「論語」「孟子」「孝経」などの儒学を中心とする道徳的なものでもありました。寺子は村内でも役付きの子息か学問好きの子どもであり、7歳くらいから入門しました。塾は寺子屋より一歩進んだ内容の教育で、地理や歴史・医学など専門性もあったと考えられます。市内の指導者も塾か寺子屋かは明確には区別できませんので、地域ごとに紹介します。平成27年(2015)4月23日、水戸の教育遺産群でもある弘道館・偕楽園および成沢の日新塾などが、栃木県の足利学校、岡山県の閑谷学校、大分県日田市の咸かんぎえん誼園とともに日本遺産に登録されました。中でも足利学校は、鎌倉時代・室町時代の最高学府といわれますが、那珂市にも下大賀の弘願寺に文明10年(1478)に出版された「金こんごうはんにゃはらみつきょう剛般若波羅蜜経」の版木が存在します。そのころの出版業は鎌倉が中心となっていましたが、ここ常陸国の瓜連においても印刷出版の事業が行われていたことを示す貴重な資料です。これらを考えると、中世におけるこの地域の学術文化の高さを知ることができます。ここでは、近世・近代における那珂市の教育遺産群として、医学を含む文武両面にわたる主な私塾と寺子屋およびそれらを担ったひとびとを紹介します。(写真「寿蔵碑」「墓碑」は当該記事人物のものです)歴史民俗資料館だより私塾と寺子屋藩校と郷校那珂市の教育遺産群(前編)「私塾と寺子屋」24▼復元された暇修館水鳥▼弘願寺所蔵の金剛般若波羅蜜経版木4