ブックタイトル広報 常陸大宮 2016年8月号 No.143
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広報 常陸大宮 2016年8月号 No.143
?????????????? ?????水郡線誕生本市を縦貫するJR水郡線は、貴重な公共交通機関として私たちの生活に欠かせない存在です。今回は、水郡線誕生のエピソードを紹介します。水戸から郡山に至る鉄道計画は、明治44年の第27回帝国議会に「白水線(白河―水戸間)鉄道建設建議案」執執として、政友会の根本正、白石義郎代議士らによって執提案されたことに始まります。執執この議案は、数度の審議により常磐線勝田駅を起点執とし、菅谷・大宮・大子を経て白河に至る路線とする執よう修正されて衆議院を通過しました。当時、勝田駅執執からはすでに湊線が敷設されていて、湊方面と大宮等執の内陸部を結ぼうとする目論見があったようです。執執しかし着手直前の大正4年4月、総選挙で政友会は執大敗します。新しい内閣が発足すると、この議案は一執転して否決に追い込まれてしまいました。執執一方、水戸―太田間の太田線は、太田鉄道株式会社執によって明治32年に開通していました。その後、経営執執譲渡された安田財閥系の水戸鉄道株式会社が、大正4執年12月、上菅谷―大宮間の鉄道敷設免許を申請しま執す。これには、勝田―大宮間に鉄道ができてしまうと執執太田線は不利益を受けるため、先に鉄道を引いてしま執おうという思惑があったといわれています。執執この水戸鉄道の動きに対して、根本代議士はじめ周執辺町村は一斉に反発し、認可しないよう政府に働きか執執けます。しかし同5年に政府の認可は下り、上菅谷―執大宮間は同10年に水戸鉄道によって開通しました。執執(水郡線)(太田線)執常陸太田駅関連駅等位置執常陸大宮駅上菅谷駅(常磐線)水戸駅勝田駅(湊線)これを受けて、勝田―上菅谷間の敷設計画は白紙となり、根本代議士らは大宮以北に目を向けます。大正6年3月の総選挙で今度は政友会が勝つと、鉄道建設の議案は再び可決され、名称を「大郡(大宮―郡山)鉄道」に改めて進められました。「大郡線」は同9年に着手された後、同11年12月には山方宿まで、同14年8月には上小川までが順次開通していきます。そして昭和2年3月10日、大子まで開通し、この日の大子駅前では、盛大な式典が催されたようです。執同年3月31日、政府は水戸鉄道を買収し、すでに営執業されていた水戸―大宮間と合わせて、水戸―大子間執執を「水郡線」と名称を改めます。その後、郡山から南執へ延びる線を「水郡北線」、大子から北へ延びる線を執執「水郡南線」と称してそれぞれに工事が進められまし執た。昭和9年12月、最後に残った磐城棚倉―川東間が執執開通し、帝国議会建議以来23年をかけて、ついに水戸執―郡山間142.4kmが全線開通したのです。執執執水郡線の経路は、現在でも開通当時とほとんど変わ執執っていません。また開通当時に設置され、90年以上経執過した現在でも供用されている施設が各地にあります。滑館トンネル石積。山方城跡の地下を貫く?第一岩崎開きょ岩崎江堰用水路を跨ぐ。橋脚外面はレンガ?山方宿駅ホーム待合室建築年を示す「T11」が残るイメージ図執もちろんこの他にもありますので、ぜひ探してみて執執ください。水郡線に揺られながら、往時に思いを馳せ執てみてはいかがでしょうか。執執執執執執執執?キハE130系執平成19年から運用執中のディーゼル動執車。写真はE132形執執【参考文献】執執『那珂町史近代・現代編』、『瓜連町史』執執歴史文化振興室緯52-1450広報常陸大宮22平成28年8月号