ブックタイトル商工会議所報ひたちなか 2016年8月10日号 No.149
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商工会議所報ひたちなか 2016年8月10日号 No.149
佐和駅は、明治31年常磐線開通と同時開業しました。列車は水戸駅を出ると、「佐和」「石神(現・東海)」「大甕」「下孫(現・多賀)」「助川(現・日立)」を通って「岩沼」へ。駅構内には、当時植えられた桜約60本、4月には花見の駅となり、桜に送られ、桜に迎えられる…。開業時のランプ小屋(写真参照)を左に見ながら改札口を出ると広場の先には、「菅谷?湊」間の乗り合いバスの停留所があり、隣には名物の「きん饅頭屋」がありました。明治35年、佐野村農会(農協)が誕生。駅前に事業所を設け肥料や農産物を取り扱っていました。昭和の時代に入ると、紙を敷いた叺かますに乾燥芋を詰め込み各地に出荷をしていました。○(マルカ)運送店前の貨物線ホームの荷小屋には、肥料や農産物等が持ち込まれ、昭和13年頃には水戸飛行場の貨物が扱われ、隣の貫斤所には小荷物が置かれていました。先隣の旅館の裏には矢場があり、近郷の旦那衆たちの弓を射る社交場となっていて、大会も開かれていました。駅前通りには、八百屋、髪結床、大正元年には地名の高場郵便局が開局、集配は隣村の一部まで受け持ち、昭和7年には局内に電話が設置され、15番まで加入していました。いつの頃からか局内に野球チームが結成され、試合には応援団の声が響いていました。当時の職員の大塚元さん、電報係の西連地芳さんは人気選手でした。昭和元年、近くに常磐銀行の支店が開業、ドアを開けると高い天井、カウンターの上に金網で仕切られた小さな窓口があり、お客様の対応をしていました。昭和6年に閉店、本店に合併されました。銀行先の呉服店前のT字路は常陸大宮から湊間の往還で、右に踏切があり、左に樹木が植えられ垣根に囲まれた塚がありました。塚は当時那珂三十三ケ村の鎮守である静神社で4月に行われる「神幸」と伝えられている磯崎の酒列磯前神社の神事に参加の時、神輿のお休み所として使用されていました。塚の隣に校医の斉藤医院があり、床屋、鋸屋、料理店前には、戦時中飛行機の燃料であった「松根油」を抽出している作業所がありました。その先に、高い煙突が立つ醤油醸造と肥料を扱う店の倉庫があり、戦争末期には倉庫に駐留していた兵隊に対しP51戦闘機が機銃掃射をし、馬一頭が死亡しました。住まいの北側レンガの壁に銃弾の跡が残っています。隣の新聞店の脇には大正11年に建立された「忠魂碑」があり、草履が奉納されている道祖神社があり、お田植え祭りの時には近郷近在の人たちで溢れんばかりで、道路に並ぶ露天商のアセチリンガスの炎が周りに幻想的な様相を見せていました。境内の銀杏の大木にはフクロウが住んでいました。明治44年、農産物の検査事務所ができ、隣の呉服店と文具店の先には畑が広がり、往還の先には役場と学校が小さく見えました。右手の森には、二ツ森古墳があり、戦争末期にはトーチカ(円形や方形などの外形で、銃口部となる開口部を除いて壁で保護された防御施設)から二基の銃眼が南に向けられていました。(つづく・文中敬称略)カ佐和駅周辺地図(昭和7~8年頃)大正13年当時の時刻表佐和駅ランプ小屋(東日本大震災で倒壊したため撤去)佐野地区~佐和駅付近の今昔1~語り部:池ノ辺大蔵さん(鮨いけのべ)第7シリーズ6