ブックタイトル広報つちうら 2016年8月上旬号 No.1176
- ページ
- 15/16
このページは 広報つちうら 2016年8月上旬号 No.1176 の電子ブックに掲載されている15ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 広報つちうら 2016年8月上旬号 No.1176 の電子ブックに掲載されている15ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
広報つちうら 2016年8月上旬号 No.1176
15広報つちうら2016.8.2ります。食糧事情は厳しく、塩ゆでのワカサギ・なすの塩漬け・納豆などのおかずも少なくなり、さつまいもの食事が多くなりました。「空腹とおやつの無い日々、規則に縛られた生活、それを受け止めてくれる大人(親)がいないことで、子どもの心を多少なりともむしばんでいき、それが弱い子へのいじめのような形で現れていったと思います。今思えば、集団疎開生活はミニ軍隊のようなものでした。」(森さん)予科練生たちが慰問のため時々遊びにきてくれたこと、親との面会や手紙はうれしい出来事でした。しかし、面会は別れる時のあらたな悲しみも生みます。「旅館の前の川に架かる八千代橋を親が渡りきり、姿が見えなくなると、一斉に泣きだしましたので、この橋を涙橋と呼んでいました。」(森さん)昭和20年3月10日の東京大空襲、4月13日の空襲で戸山国民学校の校舎は全焼、5月になると、土浦は海軍航空隊があるので爆撃を受ける恐れがあると、子どもたちは群馬県に再疎開します。「一か月後の6月10日に予科練のある阿見が爆撃をされて、多数の死傷者が出たのですから、間一髪の疎開だったともいえるかもしれません。」(染谷さん)森さんは群馬へ再疎開後、東京の家が5月25昭和19(1944)年9月、戸山国民学校(現東京都新宿区立戸山小学校)の200名を超す3・4年生の子どもたちが土浦にやってきました。「最寄り駅で親と別れ、疎開地(土浦館)に行きました。始めのうちは遠足気分でしたが、2、3日後にはホームシックになり、皆で泣きました。」(森玲子さん・昭和9年生まれ。以下、森さん)戦況の悪化により、東京から千葉・茨城両県への学童疎開がすすめられた当時、その疎開地の一つが川口川沿いにあった木造三階建の旅館土浦館でした。「私が小学5年生のとき、両親から東京の小学生がうち(土浦館)に疎開してくると聞かされました。東京は安心して生活ができないので、田舎に引越をさせられるということでした。」(染谷愛子さん・昭和8年生まれ。以下染谷さん)食糧不足で宿泊客への食事の提供もままならない時期でもあり、染谷さんの両親は、役所の依頼を受け旅館業を廃業し、東北や県北出身の従業員の方々にもやめてもらい、旅館は「土浦学寮」となったそうです。「資材不足のなか、父は東京の子は勉強するからと、私をモデルにして机を作り、準備をしました。到着した子どもたちは思ったより元気そうでほっとしました。」(染谷さん)疎開児童らは、学寮内や土浦国民学校(現土浦小学校)で勉強しながら、慣れない共同生活を送133戦時中の旅館土浦館~「土浦学寮」だった頃~旅館土浦館(昭和時代初期)日の空襲で罹り災さいし、家族で父親の実家のある山形へ再疎開を、染谷さんは、上大津村(現手野町)に一か月間疎開し、それぞれ終戦の日を迎えました。土浦館ゆかりの方々の体験文は博物館閲覧コーナー(夏休みファミリーミュージアム期間中は、パネル展示有)でご紹介しています。※本稿は平成27年度聞き取り調査を参考に記述しました。問市立博物館(?824・2928)15広報つちうら2016.8.2