ブックタイトル広報 常陸大宮 2016年7月号 No.142

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広報 常陸大宮 2016年7月号 No.142

常陸大宮市? ? ? ? ? ?もろとのむら~明治の合併後の諸富野村~Vol.11◇明治の大合併◇大正期以後の諸富野村欝明治22(1889)年の市制町村制の施行により、江欝諸富野村には大正9年から昭和18年まで、計8冊の戸時代以来の村々は、人口300~500人の規模への合欝事蹟簿が残されています。欝併が進められました。これにより、常陸大宮市域に欝80以上あった村々も統合されて18か村になりまし欝欝た。今回は諸富野村の明治の合併についてご紹介し欝ます。欝欝諸富野村は久慈郡に属し、明治22年4月1日、諸欝沢村、北富田村(天保13年に田野村と富根村・盛金欝欝村の一部が合村)、西野内村(以上すべて現在の山方欝地域)の3か村が合併して誕生しました。「諸富野欝欝村」という村名は各旧村から一文字ずつ取って付け欝られました。欝欝諸富野村域は市の北西部、男体山系に連なる山間欝かごいわに位置し、北部には籠岩の奇岩、東には金砂山(常欝みょうやま欝陸太田市上宮河内町)があり、その間には明山があ欝▲諸富野村事蹟簿(当館蔵)ります。諸沢川と彦沢川が久慈川に向かって流れ、欝欝集落はその谷沿いに形成されてきました。欝事蹟簿は「模範的町村自治」を作り出すため、明治明治の合併前、明治5(1872)年に制定された大欝38年7月26日付の茨城県訓令により作成が義務付けら欝区小区制では、はじめ諸沢村と北富田村が第十二大欝れた村ごとの台帳です。内容は、村の沿革、土地、戸区一小区、西野内村は第十三大区四小区とされまし欝口、農林水産業、鉱工業、教育、兵事、社寺、議会な欝た。明治8年以後は、3か村は同じ第四大区四小区欝ど多岐にわたりました。明治後半から戦中期にかけてに属しました。欝残されている例が多いようですが、その残り方は村に欝明治11年には、旧来の郡町村の復活を盛り込んだ欝よってまちまちです。郡区町村編成法が制定され、さらに行政効率を高め欝諸富野村事蹟簿によれば、大正9年の常住人口は欝るために数か村単位で行政を担う「連合村」が設定欝2,982人、昭和4年は3,235人、同17年は3,315人でしたされました。これをうけて諸沢村と北富田村は2か欝〔この地域の平成25年の人口は982人(茨城県企画部「茨欝村連合となり、西野内村は照山村、小貫村とともに欝城県の人口(町丁字別)」平成25年)〕。3か村連合となりました。続く明治17年には改定さ欝大正9年の事蹟簿には豪雨と洪水被害について記録欝れ、更に大きな連合村へと改められましたが、諸沢欝されています。同年10月1日、茨城県北部から栃木県村と北富田村は同じく2か村連合のまま、西野内村欝東部にかけて大雨とそれに伴う河川の氾濫が起こり、欝は小貫村、照山村と世喜地区の村々との7か村連合欝久慈川、那珂川をはじめ緒川などの支流でも被害が出に改められました。欝ました。この日が第1回の国勢調査当日であったため欝その後、明治22年の合併では、7か村連合に属し欝「国勢調査の大水」と呼ばれました。これにより、諸富ていた西野内村が諸沢村、北富田村と3か村で合併欝野村域では西野内地区において死者1名を出し、家屋欝することになりました。「古来三村は地理的にも、欝の被害も「全潰」19戸、「半潰」26戸、「浸水」60余戸交通上も密接な関係にあり、その合併は自然であっ欝に及びました。欝た」(『山方町誌下巻』)といわれる合併でしたが、そ欝の経緯は明らかではありません。欝【参考文献】欝合併すると、初代村長には木村小八郎が就任し、欝塙泉嶺『久慈郡郷土史総論』宗教新聞社大正13年、諸沢字田中37番地(現在の公民館諸富野分館の東か)欝河野宏「常陸大宮市内における明治期の町村統廃合」に役場が置かれました。その後、大正2年に字中平欝『大宮郷土研究』9平成17年欝4445番地(現在の鏡泉院の南か)に移り、改築され欝金子理一郎氏、堀江文男氏、堀江昭仁氏にご協力をました。欝いただきました。文書館?52-0571広報常陸大宮21平成28年7月号