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概要

偕楽園と弘道館

再び藩政へせつえん斉昭の謹慎は,士民の雪冤(無実を明らかにすること)運動により半年後には解かれますが,藩政への参与が許されたのは5年後の嘉永2年(18 49)のことでした。嘉永6年のペリー来航を機に斉昭は海防参与として幕政に参加,藩内においても那珂湊に反射炉を築造し大砲を鋳造するなど軍備の充実に力を注ぎました(安政の改革)。激動の中での最期安政5年(1858),将軍継嗣問題と日米修好通商条約をめぐり,斉昭は再び幕府の処分をうけます。将軍継嗣問題では,斉昭の七男で一橋家の養子となっていた徳川慶喜(のちの第十五代将軍)を推す一橋派と,紀伊藩主徳川慶福を推す南紀派との対立が表面化していました。南紀派の井伊直弼は,大老に就任すると条約に調印し,徳川家茂(慶福)が第十四代将軍となりました。直弼の断行に強く反対した斉昭や尊攘派の志士たちは,安政の大獄と呼ばれる弾圧や処分をうけ,安政6年(1859)8月,斉昭は水戸えいちっきょ城に永蟄居(終身刑)を命じられました。翌万延元年(1860)3月,桜田門外の変。同年8月,斉昭は水おくりな戸城内で死去,烈公と謚され水戸徳川家歴代の墓地瑞龍山(常陸太田市)に葬られました。徳川将軍家と水戸家系譜よしのぶよしとみずいりゅうさん将軍家徳川家康水戸藩ひでただ秀忠いえみつ家光いえつなつなしげ家綱綱重いえのぶ家宣いえつぐ家継よしなお義直(尾張)つなよし綱吉いえはる家治よりのぶよりふさ(紀伊)(威公)頼宣よしむね(紀伊)吉宗いえしげむねたけむねただ家重宗武宗尹しげよし重好(清水)(田安)(一橋)いえよし家慶いえさだ家定はるさだ治済いえなり家斉なりゆき斉順いえもち家茂よしのぶ慶喜頼房よりしげ(高松)頼重つなえだ綱條(粛公)なりあき斉昭(烈公)よしあつ慶篤(順公)みつくに光圀(義公)よりつね頼常(高松2)よりとよ頼豊(高松3)むねたか宗尭(成公)むねもと宗翰(良公)はるもり治保(文公)はるとし治紀(武公)なりのぶ斉脩(哀公)あきたけ昭武(節公)