ブックタイトル広報つちうら 2016年6月上旬号 No.1172

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広報つちうら 2016年6月上旬号 No.1172

15広報つちうら2016.6.1道どうぎょう暁と源げんかい海―鎌倉時代の土浦に生きた二人の僧侶―仏教諸宗派が多く誕生した鎌倉時代は、歴史に名を残す僧侶が次々と現れた時代でもありました。そうした僧の1人に、無むじゅうぼう住房道暁がいます。嘉禄2(1226)年、鎌倉に生まれ、若い頃は関東の諸寺で律・密教・禅を学び、後半生は尾張・長ちょうぼじ母寺で民衆の教化に尽くしたことで知られています。高僧の名にふさわしい事績もさることながら、彼の名を広く知らしめたのは著述家としての側面です。平易な話題を手がかりに、仏の教えを説いた『沙しゃせきしゅう石集』は後々まで広く読まれました。嘉元3(1305)年、道暁80歳のとき、仏教説話集である『雑ぞうたんしゅう談集』十巻を著しています。常陸の地に暮らす私たちにとって道暁の著作が重要なのは、彼が僧侶としての第一歩をこの地で始め、常陸のことを書き残していることにあります。『雑談集』では、自らを「愚老」と称してその歩みを振り返った箇所があります。それによれば、13歳で鎌倉の僧そうぼう房に住み、15歳で下しもつけ野、さらに16歳で常陸に移り、18歳で出家したと述べています。20歳を過ぎた頃には師匠から僧房を譲り受け、そこに止しじゅう住するようになります。その寺こそ、土浦の東とうじょうじ城寺でした。土浦市北部にある東城寺は、創建が平安時代初期までさかのぼります。天台宗の寺院であった東城寺は、道暁がいた鎌倉時代中期に1つの転換点を迎えます。それは、西さいだいじりゅうりっしゅう大寺流律宗との関わりです。建長4(1252)年、律宗を東国に広めるため常陸国に来た忍にんしょう性は、東城寺と宍塚の般若寺、そして小田の極楽寺に結界石を立て、律宗寺院としていきます。その時に東城寺にいたのが道暁で、住房を律院にしたと『雑談集』に記しています。道暁27歳の時でした。同じ頃、般若寺にいたのが実じつどうぼう道房源海という僧侶です。源海は止しかん観に通じていたことで知られています。止観とは、仏教の瞑想法の1つで、心を乱さずに知恵を起こし観察することを指します。源海の止観の講義は鎌倉まで聞こえたほどで、「志ししつか々塚」(般若寺のこと)まで止観の講義を聞きに行く旨を記した書状も残されています。東城寺にいた道暁も、29歳のときに源海の講義を聞いたことを『雑談集』に記しています。忍性の常陸下げこう向をきっかけに、筑波山麓の仏教は律宗という新たな潮流のもとで変化し、影響はやがて地域社会にも及びます。その起点となった東城寺と般若寺にいた道暁と源海が交流をもっていたことは確かなようです。仏道修行に励む2人の僧侶がどのような言葉を交わしたのか、今となっては知る由もありません。道暁はその後ほどなくして寺を離れ、奈良や鎌倉などの寺で過ごし、出家から20年目に尾張の長母寺に落ち着くことになります。一方、源海はその後も般若寺に止まり、寺の整備に努めます。常陸三古鐘の1つに数えられる般若寺の銅鐘(国指定重要文化財)には、建治元(1275)年の銘とともに「大だいかんじん勧進源海」の名が記されています。源海の墓塔と思われる五ごりんとう輪塔(県指定文化財)が今も境内の西側にあります。■博物館では、6月26日(日)まで『雑談集』を展示しています。問市立博物館(?824・2928)132▲『雑談集』▲『雑談集』巻三15広報つちうら2016.6.1