ブックタイトルジオパークってなに?-常陸太田の大地の恵み-

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概要

ジオパークってなに?-常陸太田の大地の恵み-

ひろつね広くろうどきょうじゅんひろつね常の読みどおり、佐竹蔵人は、恭順しました。すぐに広常とその兵たちを案内し、金砂城へ向かいました。秀義の築いた防衛ラインの穴をくぐひろつねときり抜け、金砂城の後ろにまわった広常軍は、そこで鬨の声を上げました。じょうかくどごう城郭の中まで響く凄まじい怒号でした。想定外の方面からの攻撃に秀義軍は防戦体制を整えられず劣勢となり、ついには崩れ、兵は散り散りになりました。その後、佐竹秀義は、行方をくらましました。かずさのひろつね11月6日、丑の刻(午前2時頃)、上総広常は秀義の去った城へ足を踏み入れ、城壁を焼き払うよう、指示を出しました。その後、兵たちに道々で秀義の行方をあたらせたところ、深い山に入り、はなぞのはなぞのはなぞのどうやら花園城(現在の北茨城市華川町花園にある花園神社あたり)へ向かったようだと伝え聞きました。かくれきがん1500万年の時の流れを経て完成した男体山火山角礫岩の要害に守られ、辛くも勝ちを得られるかに見えた秀義ですが、身内の裏切りのため敗北をよろい喫しました。鮮やかな紅葉に彩られた山道を、鎧で覆われた足で踏みしめはなぞのながら花園に急ぐ秀義の胸中は、京にいる父のことでしょうか、裏切った叔父のことでしょうか、はたまた、源氏の色に塗り替えられていく乱世の行く末だったのでしょうか…。とうばつその後の頼朝は、佐竹討伐を果たし、関東地方の支配を強固にし、戦線を全国に拡大しました。5年間続いたこの内乱は、壇ノ浦における平家の滅亡で幕を閉じました。はなぞの秀義は、花園に落ちのびた後、頼朝の家臣として列せられ、藤原氏とのぶくん戦い(奥州合戦)で再び武勲をあげ御家人となり、佐竹家は復活しました。その後、長く常陸の地をおさめていましたが、関ヶ原の戦いの際にも中立とがてんぽう的な立場をとり、徳川家康に咎められて、現在の秋田県地方に転封されてのりひさいます。(ちなみに2012年現在の秋田県知事・佐竹敬久氏は、佐竹の家系です)はなぞの西金砂山の紅葉の頃に歩いてみれば、金砂城を脱出し花園を目指した当時の秀義の気持ちが想像できるかもしれません。また、頼朝が戦うのに苦労した西金砂山の地形を観察し、歴史を感じてみてはいかがでしょうか。39