ブックタイトルジオパークってなに?-常陸太田の大地の恵み-

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概要

ジオパークってなに?-常陸太田の大地の恵み-

金砂城の戦い今から800年以上前に西金砂山が紅葉の頃、山の中で繰り広げられあづまかがみた戦いを鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」から紹介します。じしょう治かっちゅう承4(1180)年11月4日、常陸の地に、馬上に甲冑武具を身につけ、もちひとおうりょうじ武将たちを従えた源頼朝の姿がありました。同年8月、以仁王の令旨を受け平家に対するクーデターの兵を起こした頼朝は、10月、富士川の戦い(静岡県)で平家に大勝。その勢いで、源氏方にも関わらず頼朝の挙兵に従わない、常陸の国をおさめる佐竹氏を攻め落としに来たのでげんぺいがっせんす。世に言う「源平合戦」のはじまりでした。到着し、この地をよく見てみると、佐竹氏は常陸の国で非常に影響力をもち、国中に部下たちがあふれていることが分かってきました。「これは簡単にいかん。よく策を練ったほうがよいな」と頼朝は思い、早計に攻撃を開始することをやめ、軍議を重ねました。軍議の結果、ましんせきすじかずさのひろつねずは頼朝軍の中にいながら佐竹氏の親戚筋であった上総広常に佐竹氏の思惑を探らせに行かせました。かずさのひろつね上かんどうきじゅん総広常はもともと平家方で、平清盛に勘当され頼朝に帰順し、「隙きあらば頼朝を斬ってやる」と二心を持った人でした。しかし、この頃にきぜんちゅうしんは頼朝の毅然とした態度にうたれ、忠臣となっていました。かずさのひろつね佐竹一族の一人・佐竹義政は上総広常と会見し、「分かりました。頼朝様に参じましょう」と言いましたが、義政以上の軍事力をもつ佐竹秀義は、「父が都で平家に仕えている。簡単に頼朝様にくだることはできぬ」と言いはりました。ふく平家の本隊を退けるほど強大な軍事力に膨れ上がっていた頼朝軍でつかしたが、佐竹秀義は父が平家に仕えていることもあり、頼朝との戦争をいくさじたく決意しました。すぐに戦支度を整え、金砂城(現在の常陸太田市・西金砂神社のある場所)に軍を率いてこもったのです。秀義、29歳の秋のことでした。すき37