ブックタイトル広報 古河 2018年5月号 No.152

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概要

広報 古河 2018年5月号 No.152

広報古河 2018.5 - 18 慶応4(1868)年4月16日、日光東街道武井宿と北ほ くなん南茂も呂ろ村の間、台だ いせん仙坊ぼう(現在は大戦防。以上いずれの地名も結城市)において、旧江戸幕府軍( 伝で ん習しゅう隊た い)と明治新政府軍の戦いがありました。 諸川町の組頭である舘野家の日記「戊ぼ 辰しんの年としの日に っ記き 」には、民間人の唯一の犠牲者として、北茂呂村の医者がいたことを記しています。 長い間、この医者についての詳細は不明でしたが、地元の人から、「亡くなった医者の弟子たちが、明治期に、建立した供養塔が現存するよ」との情報をいただきました。隆岱先生行状碑と戊辰戦争 先頃、日光東街道の歴史案内をするため、新聞社の取材に同行した際、その供養塔を訪れました。 「隆りゅう岱だ い先せ んせい生行ぎょうじょう状」と題した石碑は、明治7(1874)年、関本上町(現在の筑西市関本上)の医者で学者の、元結城藩医浜は ま名な元もとちか知( 迂う庵あん)が碑文を書いたものです。 この碑文によると、大島隆岱は遠方にも知られた温厚な優れた医者で、台仙坊での激しい戦闘が村内に拡大するなか、患者の治療のために出かけ、その帰り道、雨のように飛び交う銃弾の中を匍ほ匐ふくで戻り、ようやく屋敷に辿た どり着く直前に被弾、48歳で亡くなったとあります。 ところで石碑の裏面には、寺子屋の生徒を表す筆ふ で子こ 100余名の住所・氏名が彫られています。 このことから医者大島隆岱が寺子屋を開いていたことと、行状碑が、師匠隆岱の徳を称える「筆子塚」であることがわかります。隆岱先生行状碑と南蛮外科栗崎流?「戊辰年日記」(諸川舘野家文書)??「大島隆岱行状碑」(結城市北南茂呂)石碑の裏面には… 隆岱先生行状碑の裏面には、筆子たちとは別に、恩名村の南な んばん蛮外げ科か栗くりさき崎隆りゅう泉せ んの名があり、両者共通の「隆」の一字からも、大島隆岱は、隆泉の弟子にあたる可能性が出てきました。 ところで南蛮外科栗崎流は、細かい系統など不明な点も多いですが、肥ひ後ごのくに国宇う土と郡ぐん栗崎村(現在の熊本県宇土市栗崎町)出身の初代栗崎道ど う喜き が、天正年間(1573年~1592年)、ルソン島にわたり外科を学び、帰国後に始めたものです。初代道喜の孫で3代目の道どう有う は元禄14(1701)年、江戸城の松の大廊下で浅野内た くみのかみ匠頭に斬りつけられ、負傷した吉き良ら上こうづけの野介すけの刀傷を治療しています。 また、古河藩医の河口信し んにん任は、国替前の肥前唐津藩時代に、長崎の栗崎道どう意い に入門し、栗崎流の免許皆伝を受けています。 さて、恩名栗崎氏は、栗崎道ど うえき益が館林藩の藩医となり、後を継いだ子の道ど う由ゆ が、病弱を理由に藩医を辞し、恩名村に移り住んで、隆りゅう松しょう軒け んと名乗り、医業のかたわら私塾を開いたことに始まります。 その隆松軒の養子栗崎隆泉は後に、水み のくちむら口村(現在の八千代町水口)に移り、恩名は、隆松軒の甥の道どうけん賢が継ぎます。 隆泉は天保15(1844)年4月に、「南な んばん蛮栗く りさき崎流りゅう外げ科か抜ばっすい萃」を著し、門人に与えていますが、残念ながら栗崎隆泉と大島隆岱との師弟関係を示すものは、現状、この行状碑しかありません。三和資料館学芸員 白石謙次