ブックタイトル広報 常陸大宮 2017年3月号 No.150

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広報 常陸大宮 2017年3月号 No.150

広報 常陸大宮 2 2  平成29年3月号Vooll..15常陸大宮市 ???? ???? ???? ???? ???? ????欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝合併の経緯- 塩田村- 本号では、当文書館の所在する北塩子地区を含む旧塩田村の合併の経緯を紹介します。◇明治の塩田村 大宮地域の北西部から山方地域の南西部にかけては、江戸時代以来、那珂郡北塩子村、西塩子村、照田村、長田村、長沢村という5か村があり、明治22年(1889)の町村合併によって塩田村となりました。 江戸時代の旧5か村については、北塩子村・西塩子村に大きな変化はありませんでしたが、長田村と照田村は、もとは「寺田村」という一つの村でした。江戸時代初期の寛永年中(1624-1644)に長田村は「上寺田村」、照田村は「下寺田村」と改称し、さらに天保13年(1842)にそれぞれ「長田村」、「照田村」となりました。 明治22年3月15日、いわゆる明治の大合併では、上大賀村外4か村連合に属した照田村、山方村外4か村連合に属した長田村・長沢村、東野村外5か村連合に属した北塩子村・西塩子村、と多くの連合村に分かれていた5か村が合併する形となりました。役場は北塩子の字浜井場1728-2(現在の文書館の敷地内)に、駐在所や尋常小学校とともに置かれました。「塩田」という村名は、塩子の「塩」と長田・照田の「田」から付けられました。文書館 ?52-0571▲昭和30年合併後の旧塩田村役場周辺(柴田和美氏寄贈)中央の建物が公民館(元役場)、右下が駐在所◇昭和の合併と塩田村昭和28年に町村合併促進法が公布されると、昭和の大合併への動きの中で、同29年2月に塩田村は玉川村との合併協議のため町村合併研究会を組織、9月には合併促進委員会に改組されました。しかし同年11月に玉川村は大宮町と合併合意に至ったため、塩田村は村民に対して、大宮町・山方町のどちらとの合併を望むか調査を行いました。その結果、大宮町への合併と決したものの、村民の間ではなお合併をめぐる論争が尽きず、一村での合併を断念せざるを得ない状況となっていました。ついに昭和30年3月、照田地区の分村合併が決定し、同年7月1日、長田・長沢は山方町へ、西塩子・北塩子はすでに塩田村以外の1町6か村が合併していた大宮町へと合併することになったのです。◇塩田村の史料【参考文献】 茨城県総務部地方課編『茨城県市町村合併史』昭和33年、『大宮町史』昭和33年、『大宮町史』昭和52年、『山方町誌 下巻』昭和57年▲塩田村郷土誌・学校沿革誌(大宮北小学校所蔵)▲昭和30年頃の北塩子(柴田和美氏寄贈)左から右上に伸びる道路は現在の国道293号線旧塩田村には、村の近代の歴史を知るうえで重要な史料「事蹟簿」、「郷土誌」、「学校沿革誌」が残っていて、明治時代後半から昭和初期にかけての村の行政や産業、学校教育の様子を知ることができます。「塩田村事蹟簿」(大宮町役場文書218)は昭和10~12年にかけての1冊しか確認されていませんが、玉川や多数あった池沼を利用した養殖業や、最盛期の凝灰岩(白谷石)採掘が、塩田地区の産業の一つであったことがわかります。また、戦後は失われた従軍将兵の 招 魂 社 ※があったことも記されており、忘しょう こん しゃれられた地域の歴史を知ることができます。明治・昭和の合併を知るうえでも活用していきたい史料です。※招魂社…戦死者をまつった神社<訂正> 広報常陸大宮11月号に掲載した「文書館だよりvol.14」の左側の上から4行目「山方村」は「山方町」の誤りです。 お詫びして訂正します。