ブックタイトルHitachi City GUIDE BOOK【日立市ガイドブック】
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Hitachi City GUIDE BOOK【日立市ガイドブック】
小説「ある町の高い煙突」■歴史を未来に引き継ぐ ………………………………………………………………… 「日立鉱山」をモデルとした新田次郎の小説。日立鉱山が、地域住民との共生のもとに発展してきた歴史を描いています。 日立鉱山の産物であった銅鉱石に含まれる硫黄成分が亜硫酸ガスとなり、樹木をはじめ耕作物にも影響が出て、大きな被害をもたらしました。煙害に悩む久慈郡中里村入四間の住民は、煙害交渉のリーダー関根三郎(関右馬允がモデル)を中心にして製錬中止を求めました。日立鉱山の経営者であった木原吉之助(久原房之助がモデル)は、「一山一家」の経営家族主義を実践し鉱山を発展させましたが、住民との利害が衝突しました。このため、煙道や大口径煙突により煙を希釈し煙害を解決しようと試みましたが効果がなく、ついに政府や社内の反対を押し切って大煙突の建設に踏み切りました。この煙突は、高さ155.7mで当時世界一とうたわれ、完成後、煙害減少の効果が表れました。 日立鉱山は、当時の庶務課長であった加屋淳平(角弥太郎がモデル)を中心に煙害で露出した山肌等に耐煙性の強いクロマツ、アカシアなどを植え、また、大島桜、杉などの苗木を被害民に無償配布して緑の復興に努めました。 これら市民と企業の協力による幾多の努力が今日の市の花「さくら」の原点であり、春になると市全体を見事に桜色に染め、その歴史とともに市民の誇りとなっています。水戸藩藩主徳川斉昭公が、天保7年(1836年)異国船の侵入に備え城郭を築いた助川海防城跡を公園としたものです。幕末、内乱により焼失しましたが、本丸跡等に往時を偲ばせるものがあり茨城県史跡に指定されました。助川城跡公園煙害を克服するため、企業と市民が協働して桜を植えたことが、桜のまち日立の始まりです。鞍掛山には、大正・昭和時代に日立鉱山が植栽した大島桜・山桜など500本が、年月を経て大木に成長しています。歴史を未来に伝えるため、平成19年から、再び企業と市民がともに森鞍掛山さくらの山づくり 林整備活動を行っています。150年以上前に水戸藩の郷校(庶民教育のために水戸藩が建てた学校)の1つとして建てられました。当初は「興芸館」といい、村医者の研修施設でしたが、弘化元年(1844年)に暇修館と改め、学びたい者に広く門戸を開きました。「暇修」の名のとおり、庶民が余暇を利用して研暇修館 修することができました。日立さくら杯は、毎年4月に日立市で開催する、社会人野球の日立製作所(日立市)とJX-ENEOS(横浜市)の定期戦。かつて「お山の早慶戦」と呼ばれた日本鉱業日立と日立製作所の定期戦を再現しようと、日本鉱業の流れをくむJXグループのJX-ENEOSを招いて平成24年日立さくら杯社会人野球大会 から開催しています。Hitachi City GUIDE BOOK ●28