ブックタイトルHitachi City GUIDE BOOK【日立市ガイドブック】

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概要

Hitachi City GUIDE BOOK【日立市ガイドブック】

歴史をひもとく古代から近世近代そして、現代へ 市内には、ネバ山遺跡(入四間町笹目)、六ツヶ塚遺跡(大みか町)、鹿野場遺跡(高鈴町)などの旧石器時代の遺跡があり、2万5千年前から人々が生活していたと推測されています。縄文時代の遺跡も150あまり発掘されており、貝塚や集落跡が形成されていたことがわかります。 「常陸国風土記」には、駅家が助川や藻島(現十王町伊師)にあったことや、海岸に近い場所に集落が多くあったことが記されています。また、山海の珍味(石決明(あわび)、ウニ、貝など)が多く取れたことや、密筑の里(泉が森)が人々の憩いの場であったことなどもわかります。 平安時代末期から戦国時代にかけては、佐竹氏の支配下にありました。その間、多くの社寺が建立されました。 徳川幕府が開かれた後、この地方に水戸藩がおかれ、以後日立地方は水戸藩の支配を受けることになります。天保期(1830~1844年)には水戸藩の郷校として大久保村に暇修館が開校しました。 幕末には、海防のための陣屋が設けられ、助川海防城には水戸藩家老で現山形県山辺町出身の山野邊氏が城主となり、防備を固めました。 1889年(明治22年)に村の統合が進み、宮田村と滑川村が合併し、日立村が誕生しました。 日立地方には、江戸時代から赤沢銅山と呼ばれる鉱山があり、幕末にはかなりの産銅がありましたが、鉱毒水騒ぎでその経営は安定していませんでした。1905年(明治38年)、この銅山を買受けた久原房之助は問題を新しい技術と資金で解決し、短期間で日立鉱山を四大銅山の一つに数えられるまでに発展させました。 このとき、煙害問題が表面化し一時は経営の重荷になりましたが、1914年(大正3年)に当時世界一の大煙突を築造し、また気象状況によって操業を調節する対策によって見事に乗り切りました。 1910年(明治43年)には、小平浪平が日立製作所を創業、昭和期に大きな発展を遂げました。 1939年(昭和14年)には日立市が誕生、第二次世界大戦では工場を中心に大きな被害を受けましたが、戦後鉱工業を柱に復興を遂げ、1983年(昭和58年)には市の人口が20万6千人を突破しました。 その後、産業構造の転換などにより人口減少に転じています。 2004年(平成16年)には旧多賀郡十王町と合併し、現在の日立市を形成しています。27●Hitachi City GUIDE BOOK