ブックタイトル広報 常陸大宮 2017年2月号 No.149

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広報 常陸大宮 2017年2月号 No.149

広報 常陸大宮 1 9  平成29年2月号わりも深かったとみられています。※佐竹家第十六代 義 篤 の実弟。部垂の乱を起こすが天よし あつ文九(1540)年に敗れる。雪村はのちに常陸国を離れ、会津(福島県)の 蘆 名 あし な氏や小田原(神奈川県)の北条氏、 三 春 (福島県)のみ はる田村氏など東国の各地を訪ね、画家としての 研 鑽 を積けん さんむと同時に、弟子の育成に励んだと考えられます。訪れた先々には、現在も多くの作品が残されています。晩年には三春に住んで作画に励んだと伝えられています。現在、「 雪 村 庵 」と呼ばれている庵が建てられていせっ そん あんますが、この地で雪村は生涯を終えたといわれています。東国各地を巡り、長い 鍛 錬 を経て描かれた雪村の絵たん れんは、「用いるところの筆は 狂 きょう 逸 にして 奇 思 あり(描くといつ き しころは狂逸で、ふしぎな感動がある)」(笠井昌昭他訳注、1985、『訳注 本朝画史』より)と評され、その力強くも個性的な画風は、後世の 尾 形 光 琳 、 谷 文 お がた こう りん たに ぶん 晁 なちょうど各時代を代表する画家にも多大な影響を与えました。【近年の評価】ひょうひょうとした雪村の作品は海外でも人気が高く、近年国内でもたびたび大きな展覧会が開催され、その自由な作風に様々なクリエーターが刺激を受けています。最近では、茨城新聞創刊125周年を記念して、雪村と所縁のある常陸太田市と本市で、「雪村 謎の生涯を追う」と題した講演会が開催(本市では1月21日)されるなど、多くの注目を集めています。また3月下旬からは、東京芸術大学で大規模な雪村展が開催されます。 雪村は本市に関わる歴史上でも著名な人物。故郷の偉人雪村を知るために、お出かけになってはいかがでしょうか。??????????????????????????????????????????????執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執執歴史文化振興室 緯52-1450雪   村せっ そん 皆さんは雪村をご存知でしょうか。雪村は室町時代から戦国時代にかけて関東以北で活躍した水墨画家で、ほぼ同時期に活躍した 雪 せっ 舟 と合わせて「西の雪舟、しゅう東の雪村」と称えられるなど、後世に大きな影響を与えました。 生没年にはいくつかの説がありますが、1500年頃に生まれ、1580年頃に亡くなったとされています。当時としては長寿である80歳を超えても 画 が 業 に取り組むなぎょうど、絵に対する情熱は生涯衰えませんでした。【雪村の生涯】 雪村は、室町時代の後期に 常陸国 部 垂 (現在の大宮ひたちのくに へ たれ地域)に生まれたという説が有力です。当時常陸国北部に勢力を持っていた佐竹氏の一族の長男として生まれましたが、父が側室の子であった弟に家督を譲ることを望んだため、武士としてではなく、出家して僧となる道を選んだともいわれています。 その後、常陸国 増 井 (現在の常陸太田市増井)のまし い 正 しょう宗 じゅう 寺 で修行し、絵の世界に親しんでいったと考えられじます。 古くより市内村田地区には、雪村がこの地に居住したとの言い伝えがあります。現在の下村田には、雪村筆洗いの池、出家したといわれる場所・ 五 林 堂 の跡地ご りん どうにある室町期の 五 輪 塔 、雪村と 所縁 があるといわれてご りん とう ゆかりいる 福 ふく 聚 じゅう 寺 跡などの 足 跡 が存在し、今に伝えています。じ そく せき 近隣には部垂城や宇留野城も存在しており、城主であった佐竹(部垂)義元※など、同じ佐竹一族との関▲下村田にある雪村筆洗いの池と石碑▲下町にある部垂城跡(右)と部垂義元の墓碑(左)