ブックタイトル商工会議所報ひたちなか 2017年2月10日号 No.155

ページ
6/10

このページは 商工会議所報ひたちなか 2017年2月10日号 No.155 の電子ブックに掲載されている6ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

商工会議所報ひたちなか 2017年2月10日号 No.155

高野地内の旧真崎浦を望む台地縁辺部には、内城跡(現、市営墓地)などの城跡が多く残されている。清水城跡も、真崎浦に続く谷津田に両壁を侵食された台地の先端部を利用して築かれたものである。この城は、北、東、南の三方は断崖となり、深い谷に囲まれている。台地の縁には高さ三、五メートルの土塁により囲まれている。西側の中央部にも、同様の土塁が廻らされていたがその一部は崩されている。さらに、その東側と北側には深さ約五メ-トルにも及ぶ堀が谷津に沿う形で廻っている。城を守り、攻め難い形にうまく自然の地形を利用して城が造られていることがわかる。城跡からは、すり鉢、石臼、内耳鍋、古瀬戸灰釉壺、常滑形焼の大甕、鉄釉小椀、天目茶碗、白磁茶碗などの破片が多く発見されている。さらに、屋形跡(城主が住んでいた建物)からは、青磁の破片や銅に金をちりばめた豪華な金属製品が発見されており、清水氏の権力ぶりが窺えられる貴重な出土品といえよう。清水城は、清水但馬守の居城であるが、何時築城されたかの資料は残されていない。ただ、額田城(那珂市)が石神城(東海村)を攻めたときに、額田氏の家臣として参戦している。その後、清水氏は佐竹義宣方に属し、この佐竹氏が慶長七年(一六〇二)秋田に移封された時に「其子伯耆守は高野に留まり、弟弥五衛門は秋田に従ふ申伝ふ」と『水府志料』に見える。当時を語る資料としては高野共同墓地には清水但馬守の墓と伝えられる宝篋印塔などが残されているにすぎない。(つづく・文中敬称略)清水城跡実測図今も畑のなかに残る清水城跡の土塁清水城跡出土遺物佐野地区~高野清水城(館)跡~語り部:鴨志田 篤二 さん(茨城県埋蔵文化財指導員)第8シリーズ6