ブックタイトル広報つちうら 2017年2月上旬号 No.1188

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広報つちうら 2017年2月上旬号 No.1188

広報つちうら № 1188 10都和南小 五年 吉田 悠ゆ生み 第40回 子ども郷土研究最優秀作品水害のまちを救った色川三郎兵衛 ~土浦の水害の歴史と今の防災対策~ 子ども郷土研究は、調査・研究を通して郷土の歴史や文化について関心を持ち、郷土「つちうら」への理解を深めることを目的に実施しています。今回は33点の応募作品の中から最優秀賞に選ばれた作品(一部省略)をご紹介します。 応募全作品は2月19日?まで上高津貝塚ふるさと歴史の広場で展示しています。問上高津貝塚ふるさと歴史の広場(?826・7111)▼研究の動機………………… 今年は例年になく台風が多く、沖縄や九州をはじめ、全国各地で尊とうとい人の命が失われる悲しいニュースを耳にしました。また、茨城県では、昨年の9月に鬼怒川の氾はんら ん 濫によって、私たちの近くの市・常総市では大きな災害にあったことを覚えています。 私たちは、土浦でも昔このような災害が起きた歴史を学んだことを思い出し、その時に土浦の洪水を防ぐためにつくしてくれた色川三郎兵衛について、深く調べたいと思い研究を始めました。▼研究の目的…………………・土浦市の洪水の歴史を調べる。・色川三郎兵衛の人物像を調べる。・今に残る色川三郎兵衛のおもかげをたどる。・現在の霞ヶ浦や桜川の水害対策を調べる。▼研究の方法…………………・土浦市立博物館で調べる。・小学校社会科副読本「わたしたちの茨城県」、土浦市社会科副読本「わたしたちの土浦市」で調べる。・今に残る色川三郎兵衛の記念碑などを調べる。・霞ヶ浦や桜川の現状を調べる。▼研究の内容…………………土浦市の洪水の歴史 霞ヶ浦の西岸にあり、桜川河口の低地に中心市街地を持つ土浦は、霞ヶ浦の逆水や桜川の氾濫による洪水におそわれていました。 洪水が起こる度に土浦の人々は堤ていぼう防の強化や水門の整備など繰り返してきましたが、昭和13年の大洪水は、戦争中の土浦に大きな打だげ き 撃を与えました。 戦後は桜川の堤つつみが強化され、霞ヶ浦の水位調整ができるようになって、土浦の人々は洪水に悩まされることがなくなりました。色川三郎兵衛の人物像 色川三郎兵衛は天保13(1842)年、千葉県に生まれました。小さい時から勉強が大好きで、何事にも興きょうみ味を持つ子どもだったようです。そして25歳の時に色川家の養子になりました。 色川家は、土浦で代々続く商人の家で、祖父・色川三中から強い思いを受けつぎ、「土浦の発はってん展は、水害をなくさなければありえない。」と、堤防を完成させたのが色川三郎兵衛でした。三郎兵衛は、そのころ計画中だった鉄道の線路を堤防の上に敷けば、少ない費用で堤防ができると、人々に熱心に働きかけました。 ところが、土浦のまちの人々は、「土浦は舟を使った交通で栄えているまちなので、堤防をつくって川口川をさえぎることはできない。」と反対したのでした。 はじめはうまくいきませんでしたが、説得を続け、その熱意が実り、明治28(1895)年11月、土を高く盛もり、堤防の役目を持った常じょうばん磐線の線路が、霞ヶ浦べりにでき上がりました。 しかし、三郎兵衛は満足しませんでした。それは、土浦のまちの中心を川口川が流れ、しかも、堤防を横切って霞ヶ浦に流れていたからでした。そのままでは、大雨のとき霞ヶ浦から水が逆流して、土浦のまちが水害にあってしまいます。 そこで、三郎兵衛は、川口川堤防を横切るところに、逆流を防ぐ閘こうも ん 門をつけることや、桜川の川幅を広げ、川の曲りを少なくし、堤防を高くする工事を提案し訴うったえたのでした。 明治39(1906)年、川口川の閘門はついに完成し、そのおかげで土浦のまちは水害から守られるようになりましたが、三郎兵衛は閘門ができあがる前の年に、病気でなくなってしまいました。今に残る色川三郎兵衛・色川三郎兵衛の銅像(川口二丁目)・川口川閘門(川口二丁目)・色川三郎兵衛のお墓(神龍寺・文京町)・色川三郎兵衛の台座(常福寺・下高津二丁目)川口川閘門と揚水ポンプ         沖 理りさこ紗子        関  楓かづ き 月