ブックタイトル広報 常陸大宮 2017年1月号 No.148

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概要

広報 常陸大宮 2017年1月号 No.148

広報 常陸大宮 2 0  平成29年1月号Vooll..14常陸大宮市 ???? ???? ???? ???? ???? ????欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝合併の経緯- 世 喜 村 - せ き むら 久慈川の左岸、常陸太田市と接する、現在の大字小貫・照山・辰ノ口・塩原・小倉・富岡は、昭和30年の合併以前は世喜村という一つの村でした。その後、昭和の大合併では大宮町と山方村に分かれ、別の行政体として歩むことになりました。◇江戸時代の世喜地域 今から300年前の江戸時代、世喜地域は小貫村(現大字小貫)・押沼村・生井沢村・東谷村・釜額村(以上現大字照山)・辰野口村(現大字辰ノ口)・塩原村(現大字塩原)・小倉村(現大字小倉)・樫村(1749年に富岡村に改める、現大字富岡)という9つの村でした。天保13年には、押沼・生井沢・東谷・釜額の4か村が合併して照山村となりました。久慈川左岸のこの地域は、古代から久慈郡に属していたことから、かつては金砂郷や太田といった地域との交流が盛んでした。また久慈川の流れは恩恵をもたらすとともに、災害ももたらし、たびたび洪水に見舞われる地域でもありました。江戸時代のはじめに甲斐国(山梨県)から移り、旧富岡村に住した永田茂衛門親子は、久慈川本流に辰ノ口江堰を築いたのをはじめ、岩崎江堰や小場江堰(那珂川)を築き、耕地を増大させ、治水・利水に貢献しました。 明治5年(1872年)の大区小区制では、第12大区4小区(のち13大区4小区)、同8年9月に第2大区8小区となりました。明治11年の連合村編成では、辰ノ口村・富岡村・小倉村・塩原村連合と西野内村・照山村・小貫村連合に分かれていましたが、同17年にはこの2つの連合村組織が合併し、7か村連合となりました。◇世喜村の誕生明治22年の町村制施行により、7か村連合から西野内村を除く6か村が合併して世喜村となりました。村名の由来は、永田家の功績が世人の喜びとなったことから名付けられました。文書館 ?52-0571▲世喜村事蹟簿世喜村は、明治44年(1911年)の人口が3,544人、532戸で、そのうち30%にあたる157戸が養蚕を生業とし、次いで農業が67戸、工業61戸、商業52戸、漁業36戸となっていました(明治44年世喜村事蹟簿)。役場は、塩原と辰ノ口の境界にあたる字下沢端にありました。今は使われなくなった旧道に面して、西向きに建てられていたようです。合併後は大宮町役場世喜支所として使用されました。◇分村合併世喜村は昭和の合併に際し、大宮町・山方町・金郷村ほか4か村(現常陸太田市)などの合併案に対して住民の間で希望が分かれ、住民投票が行われました。この結果、大字富岡・小倉・塩原・辰之口が大宮町に、小貫・照山が山方町に編入されて分村合併することになり、昭和30年3月31日から施行されました。小貫・照山については地理的に山方町に近く、昭和25年に小貫橋が開通したことで利便性がより高まったことを合併の事由として挙げています(山方町役場文書92)。木村宏さん、野澤満さんにご協力をいただきました。【参考文献】 塙泉嶺『久慈郡郷土史総論』宗教新聞社 大正13年、茨城県総務部地方課編『茨城県市町村合併史』昭和33年、『大宮町史』昭和33年、『大宮町史』昭和52年、『山方町誌 下巻』昭和57年▲世喜村役場跡地(塩原地区)▲世喜村役場前を通る旧道