ブックタイトル広報 常陸大宮 2016年3月号 No.138
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広報 常陸大宮 2016年3月号 No.138
常陸大宮市? ? ? ? ? ?~身近な石材しらやいし白谷石~Vol.9とうや◇史料からみた白谷石かつて白谷石の採掘に携わった東谷家には、白谷石で造ぎょうかいがん欝民家の塀や石蔵の材料として使われる凝灰岩といえば欝られた未完成の石蔵があります。この石蔵は、大正12年の大谷石が有名ですが、白谷石を使用しているお宅も多い欝関東大震災にも被害がなかったと伝えられていて、建造が欝はずです。市内の北塩子と上小瀬にまたがる白谷峠やそ始まったのはそれ以前ということです。この石蔵の建造中欝に、一族に不運が重なったため、屋根を作れば完成、といの周辺は、かつて白谷石を採掘していた場所として知ら欝うところまで進んでいたにもかかわらず中止されたそうでれ、現在も各所に露頭をみることができます。欝欝す。欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝?東谷家の石蔵欝(北塩子)欝欝▲白谷石の露頭(北塩子)欝◇戦時中の採掘欝その後、白谷石は戦中にかけて北塩子、西塩子、長沢地白谷石は、1730万年前後の火山活動で噴出した火山灰欝区の各所から採掘され、徴用で集められた地元の人々が採が堆積したものと考えられ、栃木県から産出する大谷石欝欝掘に従事しました。白谷峠から玉川村駅までトロッコの軌と同質の凝灰岩です。市内にはこの凝灰岩の層が、諸沢欝道が敷かれていたことを、多くの地元の方が覚えていまから那賀にかけて広がっていて、久慈川をはさんで東が欝す。戦争末期の昭和20年7月頃には日本軍の部隊がやって欝大沢口凝灰岩部層、西が小貝野層と呼ばれています。ど欝きて、白谷峠に地下壕をちらも同じ地層です。凝灰岩の特徴は、加工がしやすく欝掘っていたといわれていま欝採掘が容易であること、耐火性、吸水性に優れているこす。間もなく終戦を迎え、欝とです。一方で、耐久性には乏しいといわれています。部隊は直ちに撤収し、採掘欝欝坑はそのままになったようこの白谷石、いつ採掘が始まったのでしょうか。欝です。明治43年の『茨城県産業要覧』所収の「茨城県産業地欝北町の倉田家には、市内図」には、当時すでに著名であった稲田石や真壁石(笠欝かんすいせき欝で唯一の防空壕が現存しま間市、桜川市産の御影石)、寒水石(常陸太田市真弓山産欝す。白谷石を使用して地元の大理石)の表記はあるものの、白谷石の表記はありま欝の石工が造ったものです。欝せん。続いて、明治44年の『塩田村郷土誌』にも白谷峠欝産地が近かったため、物資(白岩峠)は名勝として紹介され、産物としての記載はあ欝不足の当時においても入手りません。欝しやすかったのでしょう。欝それから約10年を経た大正12年、白谷石は売買される欝12畳ほどの広さがある防空石材として『那珂郡郷土史』に初めて紹介されます。こ欝壕は、東日本大震災に見舞欝われるまでは崩れることは▲白谷石造りの防空壕こでは、安価な割に耐久力があり、近年各地に需要があ欝ありませんでした。(北町・倉田家)ると記されています。欝欝その後、昭和10~12年の「塩田村事蹟簿」では凝灰岩欝白谷石の産出は、終戦の頃までに終了したといわれていの産出量が判明します。産出量は16,340才(才は石材の欝ます。これには関東大震災からの復旧に伴い、都市部でコ容積の単位。1才は27,800cm3)、産出額は2,400円から欝欝ンクリートが普及し需要を伸ばしていったことも原因のひ2,450円、1才あたりの単価は15銭で、3年間を通して横欝とつにあるようです。ばいです。残念ながら「塩田村事蹟簿」はこの1冊しか欝東谷稔さん、圷文也さんに聞き取り調査に御協力をいただき欝残されていないため、他の年代の白谷石の産出量を知る欝ました。『常陸大宮の地下資源』(常陸大宮市歴史民俗資料館、ことはできません。白谷石の採掘の開始期は、大正期以欝2013年発行)を参考にしました。欝後といえそうです。文書館?52-0571広報常陸大宮19平成28年3月号