ブックタイトル広報かすみがうら 2016年3月号 No.132

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概要

広報かすみがうら 2016年3月号 No.132

12かすみがうら文芸ひろば詠歌の紹介投稿作品梅植りて共に励みし友去りぬ柩に白き一輪の菊石塚清教育勅語訳も判らず丸暗記小二の夏は終戦の夏菅谷咊子飛ばされし帽子まろびつ拾う吾様さ子まの可笑しき春あらし過ぐ沽野はつ子わが娘の映るテレビに涙する全国短歌大会特選髙橋フミ春めくや客待つ笑顔薄化粧扶美世朝刊は凍るポストでよくぞ待つやまぐちいさむ出島短歌会風止まぬ海辺の街に暮れはやき夕日がにじむゆきずりの声岡田恭子湯上がりの湯気の残りし孫の肌ういういしきはわれに羨しき名倉子ひさびさに姉と待ち合ふ上野のもり公孫樹の実をふみ語りつつゆく浜田留子太陽も病むと思へり薄き陽に洗濯物の場所きめかねる飯島ヒロエ▼投稿作品(俳句・短歌・川柳)を募集しています。4月4日月までに情報広報課(〒300-0192大和田562番地)へお願いします。なお、応募多数な場合には掲載されない場合がありますのでご了承ください。市民学芸員が語るシリーズ?ジオパーク構想豆知識問郷土資料館?029(896)0017千代田俳句同好会栗の木の剪定終えて遠筑波熊沢鉄雄方程式かるく解くなり春炬燵小松崎緑屋をゆする春一番の朝かな榊原清志風邪の子のとっぷりつかり兄の膝桜井愛子億年の大岩に雪瀧の音桜井筑蛙青見紫陽花俳句会初午や供へし煮しめ香を添へて飯田功思い出の味なつかしむ芹なずな久保庭悦子春時雨静かな夜の窓たたく車田きみ浦々の水面塗りかえ春時雨田能幸雄湖風に委ね流るる浮寝鳥福田宏通ジオと水産業霞ヶ浦が今の形になるまでには、いくつかの画期がありました。1約12万年前は、関東地方一帯は「古東京湾」と呼ばれる海でした。2約10万年前は、海岸線の変化がありましたが、古鬼怒川などが土砂を運び陸化が進みます。3約6万年から約2万年前は、寒冷化が進み、霞ヶ浦周辺は陸地化し、そこに火山灰が積もり関東ローム層ができました。4約6千年前の縄文時代になると、海水面が上がり(縄文海進)、谷に海水が浸入し浸食が進み大きな入江ができました。5約1千年前(平安時代)には、霞ヶ浦の原型ができあがりました。6江戸時代に入り、東京湾に流れ込んでいた利根川を現在の河道に移動させたことで、利根川が運ぶ土砂などが下流にたくさん堆積して浅くなり、場所によっては州が出来、海の入江だった霞ヶ浦は狭くなると共に、海と切り離されていきました。このような経緯でできた霞ヶ浦では、縄文時代に、塩が作られ、貝塚からはさまざまな釣り針が出土するなど豊富な魚介類を利用した日本の漁業・魚食文化の原点が形成されていく地域でもあったようです。江戸時代に霞ヶ浦の一部が、水戸藩や幕府の御留川となり、霞ヶ浦で獲れた魚は将軍家や大名にも供されました。明治初期には、霞ヶ浦で佃煮製造が始まり、霞ヶ浦の淡水魚に注目が集まります。また明治13年には、折本良平による帆引き船が発明され、大徳網漁の網元に頼らない、個人経営の漁業が確立していきました。50年前、あるいは30年前の霞ヶ浦と現在の霞ヶ浦を比べて見れば、水質も魚種組成も変わり、漁獲量も大きく変化しました。しかし霞ヶ浦では、現在も漁師が、ワカサギ・シラウオ・エビなどを獲り、日本の淡水魚漁獲高を支える存在となっています。このように、いまだに大きな生産力を保ち続けている霞ヶ浦は、健在です。「霞ヶ浦八景」ならぬ「霞ヶ浦八珍」(霞ヶ浦のおいしい魚8種)なる物を開発し、「湖山の宝」の名産品とともにわがふるさとの霞ヶ浦の育む事象のブランド化を推進し、地域活性化に繋げていき、観光ネットワークの一員になるよう市民学芸員の会としても努力していきたいと思います。筑波山地域ジオパーク推進協議会では、4月に日本ジオパークネットワークに申請する予定です。(深井征一郎)