ブックタイトル茨城県近代美術館/美術館だより No.102
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茨城県近代美術館/美術館だより No.102
それまで「資料」としての価値付けでしかなかった縄文・弥生の考古遺物が、「美的なもの」として美術展や美術館に展示されるようになったという物語は、多くの方が知るところでしょう。しかし、1958年に制作された森山朝光の木彫《陽に浴びて》(図4)の存在図4森山朝光《陽に浴びて》は、筆者にひとつの疑問を投げかけま1958年した。この作品は、岡本やイサムノグ茨城県近代美術館蔵チの影響と解釈できるものなのだろうか―水戸出身の森山は、帝室技芸員の山崎朝雲のもとで、日本の伝統的な木彫技術を学んだ彫刻家です。埴輪を担いだ若き古代人の姿を題材にした本作も、仏像彫刻の流れを汲む一木造りで作られたものです。では、いったい戦後、「埴輪」に何が起こったのか―そうした視点で戦後の考古学の歴史を開いてみると、全く異なる見方が現われてきました。最も端的に表されている一文を引用します。「敗戦は突然に日本考古学を社会の前面に引き出すことになった。日本歴史の第1ページに建国神話の神々にかわって、泥くさくて生ぐさい石器時代人が登場しただけでも、それを読む国民、とくに若い世代は驚嘆に似た感動をおぼえた。そして、それに拍車をかけるように、登呂遺跡の発掘のニュースが連日のように新聞紙面を賑わしたのである。」(「日本考古学協会50年の歩み」『日本考古学』第6号1998年)GHQ占領下、天皇を中心とする国の歴史、いわゆる皇国史観からの脱却と克服は重要な課題であり、古事記や日本書紀に基づく歴史教科書の建国神話は、墨で塗りつぶされました。敗戦で「歴史」を失った国民にとって、実証的な発掘調査による古代遺跡発見のニュースは、日本人のアイデンティティーを取り戻す、明るい光であったといいます。神話から解放され、自らの手で新しい原始・古代社会の姿を描き出したいという欲求が、埴輪というモティーフを美術の表舞台に押し上げ、新たな「自画像」を描き直すための拠り所となったとはいえないでしょうか。調べてみると戦後、1950年代から1960年代初めにかけて、埴輪に関する書籍が相次いで出版されている状況が分かりました。新たな歴史教育という側面もあるのでしょう。この時期の埴輪本には、少年少女に向けて書かれたものも多いのです。まさに「埴輪ブーム」というべき時代があったのでした。「日本の風土から民衆の手によって誕生した埴輪は、日本人の理想像としてのムードをただよわせながら、いまここに新しい意味をもって、よみがえってきたのである」(金谷克己『はにわ誕生-日本古代史の周辺-』講談社1962年)という記述からは、埴輪が戦後日本の民主主義の理想を背負って颯爽と登場したことが窺えます。しかし埴輪の称揚は、戦中期にもあったことです。1943年に出版された野間静六『埴輪美』には高村光太郎による序文が寄せられており、そこには「(前略)その面貌は大陸や南方で戦つてゐるわれらの兵士の面貌と少しも変つてゐない。その明るさ、単純素朴さ、清らかさ。これらの美は大和民族を貫いて永久に其の健康性を保有せしめ(後略)」とあります。このことは、埴輪が戦中から戦後、ある種の類似性を保ちながら、異なる理想像として読み替えられ、引き継がれたということを意味しているのではないでしょうか。はじべ森山の《陽に浴びて》の土師部が担ぐ、振り返る犬の埴輪は、この戦中期の『埴輪美』の坂本萬七撮影による写真図版を元にした可能性が考えられます。仏像や歴史人物をモティーフとしていた森山は、戦時中、坑道を掘る兵士や古事記・日本書紀の神話など、時局を反映した作品を題材に制作しています。戦後、森山にとって、歴史の喪失は、制作すべきモティーフの喪失を意味していたのでしょう。《陽に浴びて》というタイトルには、地中に埋まっていた歴史が明るい光のもとに現われたという喜び、敗戦後の日本人のアイデンティティー再生への希望が託されているのかもしれません。戦後の「埴輪ブーム」、今後も引き続き追っていきたいと考えています。1960年代―「煙突」の向こうに何が見える東京オリンピック開催決定のニュースが届いたのは、1959年。翌1960年、池田内閣による「国民所得倍増計画」のスローのろしガンによってさらなる経済発展の狼煙が上がりました。新幹線や首都高速など都市の社会基盤が整備され、1964年の東京五輪開催は、戦後の経済成長の一つの到達点でした。この50年代末から60年代の絵画には、高度成長のシンボルともいえる「煙突」の影が映り込んでいます。堀越隆次が描いたのは、男女と幼子という若い一組の家族像ですが、遠く彼方を見つめるその背後に、工業地帯の煙突が煙を上げています。西田亨の《小貝川》(図5)は、穏やかな川岸の景図5西田亨《小貝川》色をとらえたものですが、1968年茨城県近代美術館蔵水平線の彼方に二本の煙突が延びているのが見えます。この絵が描かれたのは1968年。物質的繁栄を謳歌するようになる1970年代はもう目の前です。川岸に立つ画家は、煙突の向こうにどのような「未来/過去」を見ていたのでしょうか。[近代美術館主任学芸員花井久穂]7