ブックタイトル茨城県近代美術館/美術館だより No.102

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概要

茨城県近代美術館/美術館だより No.102

所蔵品追跡レポート「戦争」と「埴輪」と「煙突」と―茨城県近代美術館所蔵品展「戦後美術と茨城Ⅰ1940年代-1960年代」より今年、第二次世界大戦の終結から70年が経とうとしています。常設第二展示室で開催中の「戦後美術と茨城Ⅰ1940年代-1960年代」(4月15日~10月18日)では、戦時中から終戦、そして復興から高度経済成長を遂げるまでの約30年を振り返るものです。当館の収蔵品の中で、戦中から戦後のこの時期に制作された作品は、数はそれほど多くはありません。しかしながら、会派や素材、ジャンルを問わず作品を横断的に見ていく中で、その時代ごとに作品にあらわれる特徴的なモティーフがおぼろげながら浮かび上がってきました。1940年代―画家たちが見た戦争戦争は、画家たちの生活や仕事の風景を大きく変えました。美術家の戦争協力体制が強化され、軍の指令によって戦意昂揚と戦争記録を目的とした作戦記録画が描かれました。従軍画家や軍の報道班員としてアジア諸国に渡った茨城の作家も少なくありません。その中から1点、石岡出身の熊岡美彦の《古塔回春》(図1)について、今回考えたことを記したいと思います。この作品はアジアの古蹟風景を描いたものとして、これまで図1熊岡美彦《古塔回春》常設展等で幾度か紹介されてきま1940年茨城県近代美術館蔵した。最初の疑問は、一体どこの古塔を描いたのかということです。この絵が描かれたのは1940年。1941年の第二回聖戦美術展に出品されています。これを糸口に調べていくと、この画家がこの絵を描いた背景が浮かび上がってきました。熊岡は第二次世界大戦中の1939年から翌年にかけて、従軍画家として中国各地を巡っています。1940年に熊岡が描いたものを辿っていくと、戦争記録画《珠江口掃海》(東京国立近代美術館無期限貸与)や《落日珠江》の背景によく似た細長い塔が描かれていることに気づきました。珠江との位置関係から推測すると、この古塔は中国広東省広州市の珠江口付近の名勝・蓮華塔の可能性が考えられます。本作が従軍経験の中で描かれたものということは、この絵の見方を新たにするものでした。従軍から戻った熊岡は、「重なる戦場と風土を目で見、腕の続く限り写生をした。(中略)支那四千年の歴史をかへり見る時、我々は頭が下がる思ひがする」(熊岡美彦「二千六百年を迎ふ」『道場』第四号1940年5月)と述べています。激しい戦火を描写する一方で、こうした古蹟の風景を描いたことは、戦中期に外地へ渡った画家のまなざしを考える上で、様々な示唆を与えてくれます。また、この《古塔回春》の背景を考えるなかで、熊岡が1941年の第4回新文展に出品した《山の娘》(図2)についても見えてくるものがありました。美しい山村を背景にした少女の、鎌を固く握った拳、眉間に皺を刻み、決然とした眼差しは、何を意味しているのか―1941年は太平洋戦争が開戦された年です。戦場に行く男性に代わって国を支える労働力となった銃後の女性の姿を象徴的に描くことが、画家たちに求められたのかもしれません。図2熊岡美彦《山の娘》1941年茨城県近代美術館蔵※第一展示室にて展示1950年代―「出土」する歴史(アイデンティティー)1950年代の作品群には、なぜか「埴輪」が多く登場します。作家それぞれ活動するグループも分野も違えど、共通して「埴輪」に対する強い関心がみられるのです。顕著なのは、戦後に抽象的な画風へと向かった稲田三郎、榎戸庄衛らモダン派ともいえる洋画家たちの埴輪への偏愛ぶりです。戦時中、敵国である欧米の影響を受けた抽象表現は、厳しく制限を受けましたが、戦後は1951年のピカソ展をはじめ、海外の美術を紹介する展覧会が国内で開かれるようになります。キュビスムなど、西洋美術の潮流が押し寄せ、若い日本の芸術家たちの心をとらえました。1950年代に制作された稲田の埴輪モティーフの作品(図3)からは、具象からキュビスム風の抽象形態へと次第に変化していく過程を見て取ることができます。西洋起源の油彩を用いる洋画家たちにとって、アイデンティティーの問題は、切実かつ複雑なもので図3稲田三郎《エスキース》あったに違いありません。洋画家たちの1954年茨城県近代美術館蔵「埴輪愛」は、古代日本に自らのルーツを求める一方で、最先端の西洋美術に共鳴するという「未来志向の古代愛好」、つまり「日本/西洋」、「古代/モダン」それぞれの軸が、きわめて複雑に絡み合う様相のなかで醸成されたものだったのではないでしょうか。戦後の復興期に描かれた、身をよじってポーズをきめる埴輪たちの姿には、日本の洋画家たちの「アイデンティティー(自己)」をめぐる苦悩と希望が刻まれているように思います。こうした戦後の洋画家たちの古代への目覚めは、実はすでに美術史の文脈で言われてきたことでもあります。戦後、岡本太郎やイサムノグチらが、考古遺物に「原始の美」を見出し、6