ブックタイトル広報あみ 2015年10月号 No.655

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概要

広報あみ 2015年10月号 No.655

広報あみ10月号通常版2015.9.25 24〈広告欄〉町村合併60周年記念特別寄稿が生まれ、多くの人達が生活し、活躍されている。さらには、上島津の台地に大規模な住宅団地「南平台地区」が誕生し、新旧地区住民の絆が益々深まりつつあることは喜ばしい限りである。過疎化が進み、小・中学校等の統廃合が増加するなか、舟島小学校は児童数が増加する等、益々活気に満ちた発展が期待されている。少子高齢化や核家族化が進むなかで、各自治体とも難問山積の時期に直面していることと思うが、もしこの合併がなかったら、税収等の面からも痩せ細った自治体ばかりとなり、何らの事業も推進できず、限界集落や住民サービスの恩恵に浴することのない地域が生まれたのではないかと思う次第である。この合併は、地域住民が公平に行政サービスを享受し、町の事業や諸施策に対し、住民も積極的に協力しつつ官民一体となって生活の向上を図ることを狙いとしたものと思う。一家に数台の車社会の現在、いつになったらマイカーに乗れるのかと思った時代は遠い昔のこと、全てが便利な社会になってきている昨今、町政もさらなる向上を目指して努力されており、敬意を表するところである。お蔭で、この下島津にも、私が島津の住民になったのは、町村合併から3年後の昭和33年の春であった。生まれ育った所は、「7つボタンは桜にいかり?」の歌で全国的に知られた、旧土浦海軍同航空隊(予科練)に隣接する廻戸である。同航空隊の跡地には、その後、陸上自衛隊武器学校が創設され現在に至っていることは周知のとおりである。青宿・新町付近は、かつては唯一の商業地であり、道路の整備や交通の便など他の地域より勝っていたように思えた。さて、今年、町村合併六十周年の節目の年に当たり、往時を振り返ると、私が島津に住み始めた当時、少なからず疑問に思うことがあったので、合併に関わった人達に尋ねたことがあった。それは、なぜ舟島地区だけが昭和30年4月1日の合併に間に合わなかったのかという点であった。当時を知る人によれば、関係する市町村とも必ずしもスムーズに事が進んだということではなく、周辺市町村のいずれと合併することが一番良いかという点について日夜激論が交わされたようであった。舟島村においても、木原村(現美浦村)との合併が良いとする人達と、阿見町を推す人達とが激しく対立していたという。そうした状況のなか、村議会においては、一旦美浦村との合併を議決したそうであるが、これに対して、島津3地区の住民が猛烈な反対運動を起こすなど、難航を極めた末に、旧舟子地区は分村という形で現美浦村に入り、竹来・掛馬・島津の3地区は阿見町との合併となったそうである。既に合意に至っていた旧阿見町・朝日村・君原村は昭和30年4月1日をもって、阿見町となり、遅れて4月20日に旧舟島村が統合され、まさに紆余曲折を経て昭和の合併が終了したそうである。改めて過ぎし60年を振り返るとき、今住んでいるこの地区の選択は適切であったように思う。農村地帯であった島津地区にも、宅地造成により若宮団地今年宿願の上水道の本管が敷設され、我が家でも積年待ち望んだ喜びを味わっているところである。また、道路行政の取り組みにも力を注がれ、国道125号線からのバイパスを横断するアクセス道は、圏央道(首都圏中央連絡自動車道)阿見東インターまで接続可能となり、島津と追原の接点近くには、「道の駅」のオープンも取り沙汰されている。さらには、地元議員の提唱による「霞ヶ浦二橋」の建設も夢ではなく、すでに関係市町村による協議が行われている模様であり、早期実現を大いに期待するところである。ここに、重ねて60年前の町村合併当時に思いを致しつつ、阿見町の益々の繁栄を祈念する次第である。町村合併60周年を迎えて町村合併60周年記念特別寄稿島津中川庄一郎中川庄一郎さん平成16年4月8日~平成20年4月7日町選挙管理委員。平成20年4月8日~平成24年4月7日町選挙管理委員長。平成27年2月12日茨城県町村会から民間自治功労者表彰。