ブックタイトル広報いたこ 2015年9月号 Vol.174
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広報いたこ 2015年9月号 Vol.174
12広報いたこ20159月号Vol.174自然大学生にとって8月中旬から9月は夏休みですが、我々水圏センターでは実習シーズン真っ盛り。茨城県外の学生さんも大勢参加します。先日は静岡の常葉大学の皆さんが水圏センターにやって来ました。わざわざ静岡からと思うかもしれませんが、潮来市を含む茨城県南地域は、昔から日本の地層研究の中心地で、今でも多彩な地層を観察し学ぶことができます。今回は学生さんたちと一緒に、地層観察に入門してみましょう。地層を観察するときは、近づいてみたり、遠くから眺めたりと、いろいろな視点から見ることが大切になります。まずは遠くから見てみましょう。下から上に見てみると、高さによって見た目が違うことがあると思います。基本的に地層は下ほど古く上ほど新しいので、その場所の環境が時代とともに変化していったことが分かります。今度は近づいてみましょう。地層になにか模様は見えますか?例えば斜めのしま模様があれば、それは砂が水や風に流されてできたものかもしれません。また、ボコボコとした変わった模様は、生物が暮らしていた痕の場合があります。それらの特徴は、昔ここが海だったのか川だったのかなどを教えてくれる重要なヒントになります(くわしくは別の機会に)。また、地層をつくっているのは細かい砂粒でしょうか?それとも握りこぶしくらいの石ころでしょうか?大きな石は速い水の流れがないと動きませんし、逆に細かい粒子は静かな場所でないとたまることができません。これも過去をひも解くヒントとなります。こんな風に地層観察では、視点を変えていろいろなヒントを探しながら、大昔の潮来の自然に思いをめぐらせるのです。茨城大学広域水圏環境科学教育研究センター山口直文地層を観察してみよう潮来市の誇れる自然シリーズ第4回牛堀の地名が文献に出てくるのは古く、室町時代の初期、応安七年(一三七四)の香取大禰ね宜ぎ家文書に「島崎の津」とともに「牛堀の津」の文字がみえる。津とは港のことで行方郡内にあった二十四ヶ所の津の一つであった。南北朝時代の興こう国こく二年(一三四一)南朝方北きた畠ばたけ親より房ふさの軍船が東条の浦(稲敷郡東町伊崎)に流れ着き近くの南朝方神宮寺城にたて篭もったのはこの応安七年より約三十年前の出来事であった。しかし、牛堀が本当に栄えたのは江戸時代になってからのことである。関ヶ原の戦いの後、天下人となった徳川家康は江戸城の強化と城下町の整備と河川改修に意をそそいだ。急速な江戸の発展にともない、膨こ大な物資の輸送は舟運によることが多く、利根川、霞ヶ浦沿岸の港が発達していったのであるが特に慶安(一六四八?一六五四)の頃より潮来に仙台藩蔵屋敷(後に津軽藩の蔵屋敷も出来る)もおかれ、牛堀は霞ヶ浦の出入り口にあたり土浦方面に向かう船の追い風を待つ「風町の港」でもあり潮来、大船津を経て北浦方面や銚子方面へ向かうコースと横利根を経て本利根へ出るコースの分岐点として重要な位置にあった。また、潮来や牛堀の発達に大きな役割を果たしたのは何といっても十六島の開発であろう。江戸時代初期には、西代、八筋川、大島などの開拓も進み寛永元年(一六二三)には牛堀の対岸三島村の開発が開始され同年二年には潮来の対岸加藤洲が開拓されている。これら十六島の開発は港町の潮来や牛堀にとっては目前に大消費地が出現したようなものである。商工業発達の大きな要因となったのである。潮来市文化財保護審議委員前島英夫文化港うしぼり潮来市の誇れる文化シリーズ第98回まちづくり・潮来の自然と歴史を知るまちづくり・潮来の自然と歴史を知る