ブックタイトル広報つちうら 2015年9月上旬号 No.1154
- ページ
- 19/20
このページは 広報つちうら 2015年9月上旬号 No.1154 の電子ブックに掲載されている19ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 広報つちうら 2015年9月上旬号 No.1154 の電子ブックに掲載されている19ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
広報つちうら 2015年9月上旬号 No.1154
19広報つちうら2015.9.1博物館の収蔵資料には、かつての醤油醸じょうぞうぎょう造業が盛んな土浦の様子を示す資料がいくつかあります。その中でも、今回は陶器でできた醤油瓶をご紹介いたします。この醤油瓶は、平成2(1990)年に市内にお住まいの方から寄贈していただいたものです。醤油用の容器と伝えられており、ほぼ同じ形・大きさのものが2つあります。大きさは、いずれも高さが24センチ前後で8センチ四方の本体と細い筒状の口の部分からなります。口の部分と本体の境目には装飾的な模様がみられます。側面には四角い枠内に「大日本常陸国土浦町色川氏醸造之證」という文字の刻印が押されています。また、片方の瓶には、底面に四角い枠内に「大」の字を記した刻印もみられます。この陶器は備びぜ前ん焼と推定され、素焼きで茶色のものです。刻印などの特徴から、明治時代中頃以降につくられたものと考えられ、本来はラベルも貼126明治時代の茶色い醤しょうゆびん油瓶られていたものと思われます。刻印の「色川氏」については、土浦の醤油醸造業者仲間の取り決めや営業状況などを記録した「醤油屋仲間証文帳」の明治時代の記述をみると、色川三さぶろ郎兵べ衛え、色川治じへい兵衛、色川惣そうざぶろう三郎の名があげられます。これらの3人は、いずれも明治時代末頃には醤油醸造をやめてしまっており、醤油瓶の製作年代が限定できます。この3人の中でも、色川三郎兵衛については比較的生産規模も大きく、明治16(1883)年にはオランダで開かれた万国博覧会に「さしみ醤油」を出品して金賞を授与され、土浦の醤油の名を広めました。また、醤油醸造業を営む一方、明治23(1890)年以降は国会議員として土浦の町を水害から守るため、鉄道計画路線の変更や旧川口川河口への水門設置に尽力したことでも知られます。ところで、近年、神奈川県鎌倉市の今いまこうじにしいせき小路西遺跡の発掘調査では、先の醤油瓶と全く同じものが出土しました。この遺跡は、以前から古代の役所跡や鎌倉時代の武家屋敷跡が発見されたことで知られます。平成23年の調査では、鎌倉時代の建物跡群と重複して、明治時代中頃から大正時代までの生活用具や建材と思われる木きくず屑が大量に廃棄された大きな穴がみつかり、醤油瓶もこの中からみつかりました。この穴は、大正12(1923)年9月に起きた関東大震災による被災物の捨て場と考えられています。今小路西遺跡出土の醤油瓶にも、「大日本常陸国19広報つちうら2015.9.1土浦町色川氏醸造之證」の刻印が押されています鎌。倉の地は、明治20(1887)年を前後して海水浴場が開かれ、鉄道も敷かれることで、皇族・華族・政財界などの裕福な人々の別荘地としての人気が高まりました。今小路西遺跡周辺も古地図などで別荘地であったとされています。今回紹介する醤油瓶を製作した色川氏については特定できませんでしたが、当時の土浦の醤油醸造業界の状況からすると、色川三郎兵衛の醸造所で製作した可能性が高いかも知れません。また、今小路西遺跡での調査成果を勘案すると、この色川氏が醸造した醤油が裕福な人々の中でも用いられ、その容器が大正時代の終りまで伝えられたと考えられます。明治時代の茶色い醤油瓶は、9月30日まで博物館で展示します。どうぞご覧下さい。問市立博物館(?824・2928)茶色い醤油瓶醤油瓶の刻印