ブックタイトル広報 稲敷 2015年9月号 No.126

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概要

広報 稲敷 2015年9月号 No.126

広報稲敷平成27年9月号22ふるさと探訪第一〇一号「小野川の源流を訪ねて」で紹介されましたが、小野川は古くから交通の要所として栄えてきました。平安時代の八三〇年に淳和天皇の第三皇女貞子が目の病平癒祈願のため、小野・逢善寺を訪れました。その時連れていた猿が舟から飛び込んで死んだことから「猿河岸」と呼ばれる河岸や「伊佐津河岸」など他にも小野川には多くの河岸がありました。その後、徳川幕府が江戸に開かれると諸大名が江戸に住むようになり、それにつれて人々も集まってきました。すると、食料や燃料の薪などが大量に必要となり、徳川幕府は関東各地から物資を調達するため利根川水系の治水と共に水運も整備しました。小野川周辺には「御林」と呼ばれる幕府直轄御用林が設けられました。ここで、生産された材木や薪が、現在の島田付近の「御用河岸」から下流の「伊佐津河岸」まで小舟で運び、高瀬舟に積み替えられ、霞ヶ浦・利根川・江戸川を経て日本橋へと、およそ十日間かけて運ばれました。伊佐津河岸からは米・材木・薪炭等が、江戸からは塩・古着・小間物類がもたらされました。こうして伊佐津河岸は江戸時代より昭和初期まで、高瀬舟や蒸気船の行き交う河岸として栄えました。その当時のことが伊佐津・円福寺や小野・逢善寺に残っている資料から読み取ることができます。伊佐津・円福寺には大般若経(写真12)の寄進者に「江戸八町堀・常州屋保治、江戸八町堀・冨倉屋林吉妻モト女、江戸・桶屋政七、村川岸・問屋文蔵」の名が読み取れます。さらに、本堂外階段横の石仏(写真3)の寄進者として、「東京日本橋通蛎殻町二ノ十五・江原喜代、荏原郡下蛇窪・高山ちゑ仝高山寅吉大正十年酉十一月十七日」の名が刻まれています。小野・逢善寺本堂に入って右手、閻魔大王の足元に二体の石仏があります。右側の伝教大師の石仏(写真4)には「高山半次郎・荏原郡平塚村下蛇窪二二六番地、宮崎岩吉・赤坂区青山北町五丁目四十六番地、石井つる・東京京橋区月島通り、発起人飯田仙太郎」。左側の弘法大師の石仏(写真5)には「京ばし月島通り・石井つる、京ばし月島東仲通り九ノ二間瀬孝一郎、神田・挽澳澳きく青木日太郎発キ人浅草・飯田仙太郎」の名が刻まれています。これらのことから、水運により江戸・東京と深い繋がりがあったことが推測されます。※約10年にわたって連載をしてきましたが、今月号で休止致します。長い間ご愛読ありがとうございました。これまでの連載分は一冊にまとめる予定です。●歴史民俗資料館?0299?79?3211ふるさと探訪第108号水運による江戸・東京との繋がり●市郷土資料調査委員・池田恵子円福寺・逢善寺に残る資料より5弘法大師(逢善寺)3弘法大師(円福寺)4伝教大師(逢善寺)2大般若経1大般若経