ブックタイトル広報さくらがわ 2015年8月1日号 No.237
- ページ
- 13/16
このページは 広報さくらがわ 2015年8月1日号 No.237 の電子ブックに掲載されている13ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 広報さくらがわ 2015年8月1日号 No.237 の電子ブックに掲載されている13ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
広報さくらがわ 2015年8月1日号 No.237
磯部稲村神社にある紀貫之歌碑真壁伝承館にある藤田祐四郎歌碑磯部桜川公園にある石倉翠葉句碑歴No.61教育委員会生涯学習課伝承館グループ(? 0296-23-8521)史資料館だより寺社や公共施設の一角には多様な石碑が並んでいます。これらには地域の歴史や建立の謂いわれが記される一方、その土地に関わる俳句や短歌が刻まれたものもあるのです。今回は、石碑の中でも、文学に関わる碑について紹介します。磯部稲村神社の境内に足を踏み入れると、江戸時代末の天保14年(1843年)に建てられた大きな歌碑があります。郷土を映す文学碑記されているのは、平安時代に編さんされた『後ご撰せん和わ歌か集しゅう』に収められている紀きの貫つら之ゆきの『いつもより春へになれは桜川波の花こそまなくよすらめ』という歌で、桜川という地名を聞いた紀貫之が花の波が間断なく押し寄せる様を思い描いて詠んだと言われています。紀貫之自身が東国に来たという記録はありませんが、桜川の評判が遠い京にまで届いていたとも考えられています。なお、『後撰和歌集』には『常よりも春べになればさくら河花の浪こそ間なく寄すらめ』と記されていますが、これは歌が詠まれた平安時代から石碑の建てられた江戸時代までに人によって伝えられてきた中で少し形が変化していったためと思われます。次に紹介するのは、磯部桜川公園の中にある『桜さくら魚うお掬すくはば花となりぬべし』と記された句碑。この句は、旧岩瀬町西飯岡出身の文士・石いし倉くら翠すい葉ようが、桜川を舞台にした謡曲「桜川」について詠んだもので、石碑の文字は翠葉と親交のあった小お川がわ芋う銭せんの書によるものです。若干20歳という年齢で、桜川に関する歴史や風俗などを『桜さくらがわじせきこう川事蹟考』という1冊の本にまとめ上げた石倉翠葉は、私財を投じて桜川顕彰のために生涯を捧げました。大正13年に桜川のサクラが国の名勝に指定されたのは、彼の存在があってこそです。最後に真壁伝承館敷地内にある藤ふじ田た祐すけ四し郎ろうの歌碑を紹介します。藤田祐四郎は東京美術学校日本画科に進学するも、生家の農業を継ぐために絵筆の道を断念。しかし、農業に従事する傍ら、文芸に親しみ続けました。『つくばねのふもとの麦は穂孕はらみて妹いもが住むべに向きかよそがむ』石碑に刻まれた歌は、筑波の遠縁を尋ねた際、その途次に詠んだものだと言われています。このほかに市内には紹介した以外にも文学碑が多数残されています。文士たちが残した言葉から、いつもと違った郷土の姿に触れてみてください。13さくらがわ2015.8.1