ブックタイトル広報みと 2015年8月1日号 No.1361
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広報みと 2015年8月1日号 No.1361
こうして昭和20年3月10日の東京大空襲をはじめ、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、尼崎など、日本本土への本格的な空襲が開始された。終戦間際に行われた水戸空襲昭和20年6月半ばまでに、B29の爆撃によって大都市が焦土になると、今度は地方都市に対しても徹底した焼夷弾による爆撃が行われた。8月2日に空襲を受けたのは、水戸のほか富山、八王子、長岡の4都市。水戸が標的となったのは、常磐線の輸送上の基地で、日立工場のための労働力の供給源であり、下請けの中心だったからという理由であった。160機のB29が房総半島から水戸に侵入し、午前0時31分から2時16分までの1時間45分間もの間、空襲を行った。投下された爆弾の合計は1145トン。市民一人に対し、約2・5発が投下されたことになる。この空襲で水戸市街のほとんどが焦土と化し、死者は300人以上にのぼった。特集遠ざかる記憶―も自宅は無事で、私は手当を終えた妹の看病していました。体は包帯でぐるぐる巻きなっていましたが、治療をしてもらえたこともあり、大丈夫だろうと安心していました。二人きりの部屋の中、うちわで仰いであげていると「疲れるからもういいよ」と私を気づかってくれる妹。「痛ないか」という問いかけにも、「痛ないよ」と答え、決して弱音を吐きませんでした。一度、妹は母を呼びました。でも、後片づけなどで忙しく、なかなか顔を見せてくれません。代わりに伯母が姿を見せ、声をかけると「何でもないよ」と寂しそうに答えるだけでした。しばらくして「あれは何やろ」と、妹は部屋の片隅を指さしました。見ると手のひらくらいの白い雲のようなものがフワフワと浮かんで、南の空の方に飛んでいきました。8月2日の夕方、妹は亡くなりました。あの白い雲のようなものは、やがて消えていく妹の魂だったのではないかと思います。母の思いやり、妹の思い母はずっと、妹に下駄を履かせたことを悔やんでいました。他の靴を履かせておけば、途中で足を止めることはなかった。そして妹の体に火が移ることもなかったと考えたのでしょう。でもそれは、ゴム底の靴では、火の海の中を歩くことができないという母の気づかいによるものでした。今でも三喜子が生まれたときに、喜んでいた摩耶子の笑顔を忘れることができません。水戸空襲における被害状況罹り災戸数…10,104戸罹災人員…50,605人死亡者…242人※後の調査では300人以上。重傷者…144人(水戸市事務報告書昭和20年度から)妹の摩耶子さんが、お母さんを呼んだのは、もう一度、母の温もりを感じ、そして、最後の別れをしたかったからなのかも知れない―。泉町周辺摩耶子さん7 2015. 8. 1広報みと