ブックタイトル広報みと 2015年8月1日号 No.1361

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概要

広報みと 2015年8月1日号 No.1361

疎開した水戸の地で、空襲の被害に遭う昭和20年5月に、神戸から父の実家のある水戸へ、母と二人の妹たちと一緒に疎開してきました。小学2年生だった私は、関西弁を話すので、同級生にからかわれることが多く、なかなか友だちができませんでした。そのため、家では、3歳になるすぐ下の妹・摩耶子と一緒に遊んで過ごしていました。8月2日の未明に空襲に遭い、隣の大成高等女学校(現大成女子高)が被害を受けたので、母が一番下の妹・三喜子を背負いながら、摩耶子の手を引き、みんなで家を飛び出しました。太郎坂(五軒町)を下っている途中で、摩耶子の履いている下駄が脱げてしまい、母が急いでひもを結び直しているところに、焼夷弾が襲いかかりました。あちこちに火が燃え広がって、歩くこともできない状態。気が付くと摩耶子の体が燃えていたのです。母の代わりに傷ついた妹の看病に努めた空襲が落ち着いてから自宅に帰りました。幸いに水戸空襲の体験者広瀬勢喜子さん77歳(五軒町3)戦争で終止符を打たれた妹との日々戦略爆撃都市に対する戦略攻撃が恐ろしい威力を発揮したのは、第2次世界大戦の大きな特徴だった。戦略攻撃の目的は、生産・流通の中枢を破壊するとともに、多数の市民を殺傷して国民の戦意をくじくことだった。日本の都市は、密集した燃えやすい木造住宅に、工場施設が取り囲まれているため、焼しょうい夷弾による攻撃に対して極めて弱いということをアメリカ軍は把握していた。ペリリュー島が陥落し、その後、硫黄島、沖縄などで壮絶な戦いが繰り広げられ、日本は大きな損害を受けた。そして、日本本土への攻撃が本格的に始まった―。【インタビュー】Interview 2水戸中央郵便局前