ブックタイトル広報みと 2015年8月1日号 No.1361

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概要

広報みと 2015年8月1日号 No.1361

ペリリュー島は、緑が濃くて、ヤシの木がたくさんあって、穏やかな島でした。到着してすぐにみんなで陣地づくりを始めました。コンクリートのように硬い岩山を、手作業で掘るのは本当に大変。でも、いつ攻め込まれるか分からない。4か月もの間、夜も寝ず、必死に洞窟を造り続けました。9月に大挙して現れたアメリカ軍。しかし、恐怖はなかったものすごい数の軍艦が島を囲んだときには、もう二度と日本の土を踏むことはないと死を覚悟しました。自分はこの島の土になるのだなと。すると不思議なもので、恐怖を感じなくなるんです。これは、実際にその場にいた人でないと分からない感覚だと思います。戦闘の前に、仲間たちと別れの挨拶をし、頭の中は至って冷静で、迫ってくるアメリカ軍を迎え撃ちました。今思えば、それは冷静ではなかったのかも知れません。私は海岸線の防備に努めていましたが、アメリカ軍に囲まれてしまい、洞窟に隠れました。食料がほとんど尽き、暗い洞窟の中で息を潜め続けた日々海岸線を越えて、侵攻してくるアメリカ軍に対して、洞窟に潜み迎え撃つ日本軍。この戦法によりアメリカ軍は多くの戦傷者を出す。状況を打開するため、射程距離の長い火炎放射戦車などを用い、洞窟内の日本軍を徹底的に攻撃した。陣地は次々と破壊され、9月末には島のほぼ全域をアメリカ軍が支配する。日本軍の死者はこの時点で8000人に達し、残った兵士たちは居場所が見つからないように、昼間は洞窟内に身を潜めているしかなかった。補給物資は届かず、けが人の手当もできないまま、仲間の遺体も洞窟の外に出す以外方法がなかった。生還者34名の一人永井敬司さん94歳(茨城町)玉砕を知ることなく、戦い続けた兵士満州(中国東北部)で国境警備や情報収集の任務にあたっていた永井敬司さん。上層部からの命令で満州を離れることになったが、情報流出を防ぐため、行き先は一切教えられず、配給された夏用の軍服から、派遣先が南方だと察したという―。洞窟陣地入口ペリリュー島全景【インタビュー】Interview 1