ブックタイトル広報みと 2015年8月1日号 No.1361
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広報みと 2015年8月1日号 No.1361
勝つためではなく、負けることを前提とした戦い昭和17年6月のミッドウェー海戦以降、劣勢を強いられた日本軍は、千島・小笠原・内南洋(中西部)・西部ニューギニア圏域を絶対国防圏とし、防備の強化を図った。これにより、歩兵第二連隊を中心に、海軍などを合わせて約1万人が、守備隊としてペリリュー島に派遣された。太平洋に浮かぶペリリュー島は、南北およそ9km、東西3kmのサンゴ礁でできたパラオ共和国の島の一つである。当時この島には、2本の滑走路を持つ大規模な飛行場があり、ここでの戦いが、後の戦局を大きく左右する。作戦の目的は、一日でも長く守り抜き、軍全体の立て直しを図ること。負けることを前提に、時間稼ぎをするためのものであった。持久戦のために造られた500以上の洞窟くつ昭和19年4月末にペリリュー島に上陸した歩兵第二連隊の任務は、アメリカ昭和19年11月24日、歩兵第二連隊長(ペリリュー島守備隊長)中川州男大佐は、軍旗を奉焼し、パラオ地区集団司令部あてに玉砕を知らせる電報を発信した。「サクラ・サクラ…」特集遠ざかる記憶―戦後70年現在のペリリュー島2015. 8. 1広報みと2