ブックタイトル広報なか 2015年6月号 No.125
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広報なか 2015年6月号 No.125
広報なか6月号19問い合わせ?297-008013中宿東館常運寺脇(「ひだまり」東)にあった高野丹後の屋敷跡、宅地造成のために発掘調査がなされた際にはみごとな?水?堀?が出現しましみずほりた。14地天館飛田右角通高の屋敷、地天の森に堀や土塁が残っていますが、都市計画道路が縦貫するため平成年度に発掘調査がなされまし26た。古墳時代の住居跡もあり、「子持ち曲玉」が出土しています。15仲の房館地天館跡西方に正覚寺(浄土真宗)が見えます。ここが館跡で関口左衛門尉の屋敷でした。16仲の房東地天館と仲の房館との間の森にあり軍司筑後守の住まいでした。二重・三重の高い土塁と堀がめぐらされた大きな館跡でしたが、宅地造成のために平成年度に発掘調査25がなされ、ここも水堀であったことが判明しています。17高内館ここは宮田掃部助の屋敷跡とされ、南側半分は開発されて水田化していますが、東・北部に残る深い堀跡はみごとです。やがて、この一部も都市計画道路が縦貫する予定です。18竹ノ内館両宮水系の東側、両宮池と竹之内溜池に挟まれた森が藤咲丹後(一ノ関藤咲丹後の嫡子と推定される)の屋敷跡です。今は開発されて跡形もありません。(鷺内館跡は後編で記述)まとまとめ菅谷村にあった多くの館は、寄居の平野氏を中心としたもののようで、水戸城を支配していた江戸氏の家臣団であったようです。これにより、この菅谷地域は北の額田氏と南の江戸氏との境界に当たり、かなり緊張した生活が続いていたと思われます。しかし、江戸時代に入ってからは紛争もなく、地図に見られるようにかなり水田開発が進んで落ち着いた生活であったと思われます。この地域には寄居・京塚・地天などに広く古墳群も存在します。寄居平野館跡西方の石尊宮遺跡からは旧石器も出土していますので、周囲の水源を利用した古代人が早くから住んでいたこともわかります。※皆様のお持ちの土地が館跡であったり、地下に埋蔵文化財(遺跡)が存在する場合があります。その場合の土地開発には事前に教育委員会生涯学習課(歴史民俗資料館)への届け出が必要となります歴史民俗資料館?297・0080問い合わせ??