ブックタイトル広報なか 2015年6月号 No.125

ページ
18/34

このページは 広報なか 2015年6月号 No.125 の電子ブックに掲載されている18ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

広報なか 2015年6月号 No.125

18歴史民俗資料館だより村の中央村の中央部? ?? ??棚倉街道上町・下町通りに挟まれた中央部を南から見ていきます。字「堀の内」の東に字「?鍬?柄?」がくわからあり、その地域に広い鎮守の森(宮山)を持った「8八はち竜りゅう神(社)」がじん見えます。これは、水戸藩の2代藩主光圀(義公)の社寺改革により、上宿にあった両宮の一方である八幡社が廃止され、新たに八竜神社をここに祀ったものです。これにより、上宿・中宿周辺住民は鹿島社を中心に信仰を高め、下宿周辺の住民は八竜神社を中心にまとまったようです。しかし、両者が互いに対立することが多く菅谷村は永く混迷していました。これを見た9代藩主斉昭(烈公)は、強権を持って鹿島社・八竜神の双方を廃止し、安政4年(1857)新たに鹿島神宮から勧請して「菅谷鹿島神社」を現在地に建立、これをもって菅谷村住民の統一を図ったのが、今から158年前のことでした。なお、八竜神は下宿の人々によって、現在も祀られています。一方、絵図の北方に街道やあぜ道で区切られ6個に分かれた池(両宮池)が見えますが、そこに大きく突き出た「両宮御林」の森の中に見えるのが「9鹿島社」です。その手前には池に囲まれた10弁天社も見えます。池を渡って鹿島社までの長い参道、往時の姿が偲ばれます。? ? ? ? ?ほとんどの館跡は森として残っています。戦国時代が終わり徳川氏の時代になると館主一家は館から出されたといわれますから、その跡は植林などを含めて自然と山林などになっていったのでしょうか。11堀の内館大和田主水の屋敷とされ、現在はその中央を国道349号のバイパスが縦貫しています。延命院はこの地域にありましたが、後に中宿に移っています。この街道西側奥に堀か水路と思われる跡があり、磯崎館跡とも考えられますが定かではありません。12平野小六館字小六内にある比較的大きな森は、西之内の森と併せて大きな森の?塊?となっています。かたまりこれは現在鹿島台団地となっている所です。