ブックタイトル広報 稲敷 2015年6月号 No.123

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概要

広報 稲敷 2015年6月号 No.123

く、幕府の厳重な管理下に置かれていまました。ろに設けられており、関所的な役割が多きず、近郊河川には、架橋が進み消滅し6道標江戸時代主要な街道が川を横切るとこ稲敷市の昭和五六年の地図には確認で西代渡船場て調べてみました。ります。さて、稲敷市内の渡し場の歴史についの地図から読み取ると、下の一覧表とな5道標できます。昭和五六年の国土地理院発行五万分の一橋向渡船場市内に残る道標など(写真56)で確認ょう。明治三六年、昭和七年、昭和二七年、が重要な場所であり、渡し場の存在は、稲敷市の渡船場はどこにあったのでし地への人々の往来には「渡し場」(渡船場)て、ほとんどの渡船場は消滅しています。道を隔てる大きな境であり、そのため各もに、河川に永久橋がかけられるにつれであり、陸上交通からすれば、対岸との昭和五〇年代には、陸上交通の振興とと遡ってみると、河川は遠隔地を結ぶ道済成長期までは渡船が運航していました。していました。もありましたが、昭和三〇年代の高度経を運んだりするために、小舟を使い移動旧水郷大橋開通により廃止されるところ隣の家や学校に行ったり、田に稲や農具昭和時代利根川の流路や昭和一二年の川幅の少ないところには小橋が架けられ、利用されました。地域には、多くの水路(江えん間ま)が散在し、に随時設けられ、人々の往来の足としてしてきました。由に設置され、対岸交通の必要なところり、水郷地帯と呼ばれ水運が発達し発展ての渡船が活発化しました。渡船場は自に囲まれ、水とは切り離せない関係にあより、茨城県側から千葉県側の駅に向け霞ヶ浦・利根川・新利根川・小野川などれ、利根川の水運や、鉄道の発達などにし、自然の美しさが残されていました。明治時代国内の内陸水運の振興が図ら田地帯からなり、いくつもの河川が流入用されていました。水と緑の稲敷市は、稲敷台地と広大な水した。大杉神社参詣、成田山参詣等に利渡船場明治36年昭和7年昭和27年河川名1中嶋(本新嶋村)?飯嶋(東大戸村)○○○利根川2上ノ嶋(本新嶋村)?石納(東大戸村)○利根川3結佐(十余嶋村)?野間谷原(東大戸村)○?川尻○利根川4六角(十余嶋村)?川尻(東大戸村)○?川尻○利根川5橋向(十余嶋村)?神崎(神崎村)○○○利根川6西代(本新嶋村)?笄嶋(佐原町)○○○横利根川7原(浮嶋村)?古宿(麻生町)○○○霞ヶ浦8前浦(浮嶋村)?下馬渡(古渡村)○戸崎?○霞ヶ浦9水神(本新嶋村)?同向地○○新利根川10伊佐部(伊崎村)?同向地○○○新利根川11高田(高田村)?江戸崎(江戸崎町)○小野川12四谷(十余嶋村)?高谷(瑞穂村)○○利根川13原(浮嶋村)?古新田(伊崎村)○霞ヶ浦14野原(鳩崎村)?端山(安中村)○霞ヶ浦●市郷土資料調査委員・姥貝守八年)水郷の生活と橋(大利根博物館・平成一水郷稲敷の渡し場年)大利根百話(関東建設弘済会・昭和六二ふるさと探訪第105回【資料】211●歴史民俗資料館?0299?79?3西代渡船場広報稲敷平成27年6月号26