ブックタイトル広報 常陸大宮 2015年5月号 No.128
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広報 常陸大宮 2015年5月号 No.128
常陸大宮市~江戸時代の道、現わる~? ? ? ? ? ?発見された区間野上から和田付近の南郷道(1/25000)欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝Vol.4「南郷道」は水戸と奥州棚倉(福島県棚倉町)を結ぶ街道で、江戸時代には、東海道や中山道などの五わきおうかん街道に次ぐ脇往還として利用されてきました。難所の多さから、参勤交代などの公的な通行に使われることはありませんでしたが、一般の旅人や商人、年貢米等の物資輸送には、久慈川舟運を併用することで一定の利便性を確保していたようです。現在の国道118号線と重複する場所も多く、常陸国北西部の主要な街道でした。安政2年(1855)に水戸藩士の加藤寛斎が描いひたちのくにほくぐんりていけんすうのきた『常陸国北郡里程間数之記』では、この部分は和田川(枇杷川の誤り)へ向かって下り坂となっていて、道の脇には山が迫る様子が描かれています。びわがわ現在、県道門井山方線の野上地内では、枇杷川を欝越えて野上へ南下する道路を造成する工事が進んで欝よりかみみちいます。ここには、中世の依上道(奥州白河から大欝欝子地方を経て瓜連へ至る道筋)を原形とする、江戸欝時代のいわゆる「※なんごうみち南郷道」(南郷街道)の一部が存欝在すると想定されていました。もとの南郷道は、現欝欝在の県道のわずかに西の林の中にあるはずと考えら欝れていましたが、これまでは確認することができま欝せんでした。欝欝この未確認だった南郷道が、工事に伴う樹木の伐欝▲「常陸国北郡里程間数之記」(左上方の道)(国立国会図書館所蔵)採によって明らかになりました。100mほどの短欝い区間ですが、道幅は約2mあり、野上から枇杷川欝工事の過程でやぶが刈り払われたため、今まで存欝の低地に下りていく山道です。枇杷川の北には、和在が知られていなかった石造物も確認されました。欝田の集落に向かって上っていく南郷道が続いていま欝表面に「馬頭観世音菩薩」と刻まれていて、年代はす。欝確認できませんが、高さ94cm、最大幅55cm、厚さ欝欝26cmの花こう岩製で、仰向けに倒れた状態で発見欝されました。この道が古くから使用されてきたこと欝欝の証となるものでしょう。工事に伴い、この付近に欝移設されることになります。欝欝欝発見された欝石仏葛欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝欝※「南郷道」「南郷街道」の呼称については定まった定義があ欝りませんが、広く認知されていることを踏まえ、本稿では欝そのまま使用しました。欝※南郷道についての概要は歴史民俗資料館展示図録『水戸と欝欝奥州をつなぐもうひとつの道南郷道(2014)』をご覧欝ください。欝文書館緯52-0571▲発見された古道広報常陸大宮14平成27年5月号