ブックタイトル広報とうかい お知らせ版 2015年5月25日号 No.278
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広報とうかい お知らせ版 2015年5月25日号 No.278
広報とうかい5東海ぶらら倶楽部presents東海村発足60周年記念村立図書館開館30周年記念写真展「東海村の今いまむかし昔」東海村の今と昔の姿を写した写真展の開催(期日8月1日(土)~3 0日(日)、場所村立図書館)に伴い、その懐かしい写真をち・ょっとだけご・・・・・紹介していきます!▼向渚と久慈漁港(昭和20年代)▼・25平成第27年257月8号25日号むこうなぎさかつて向渚は東海村域だった。久慈川の河口は黒潮によって北に蛇行し、幅120メートル、長さ1.5キロメートルもの長い砂州(向渚)を作った。そのため久慈川は排水が悪く、大雨が降るとたびたび氾濫し、石神外宿や竹瓦・亀下・豊岡の集落を洪水で困らせた。砂州を切って久慈川を直流させる「河口切り」は当時最も有効な手段だったが、水位が下がって久慈漁港から出漁できなくなるので、両岸の住民はそのたびに対立した。そこで東海村は、日立港築港に当たり、久慈川直流等を条件に、向渚を昭和46年末に日立市に割譲したのである。〒▼3発1行9東‐海1村1(9村2長公那室珂広郡報東広海聴村課東)海三丁目7番1号?029(282)1711http://www.vill.tokai.ibaraki.jp田畠(「私領」と呼ばれる)やさまくは不明のままです。は郷や村の有力住人が、開いたも残されていませんから、今も多ていったわけではなく、実際にいては、文字で書かれた史料が何分割相続して一族が枝分かれした郡規模の所領を子どもたちがして考えると、父親が持ってい豊受皇大神宮い考とずえのれた関に方係せがをよよ重白い視かし方もて氏し、のれそ成まの立せ成にん立つ。を近年の中世史研究の成果に照らもう少し水陸の交通や商品流通どうも現実は異なるようです。はり近年の研究成果に照らせば、のまま信用されていましたが、めた主体と評価していますが、や樹形図のような武士の系図がそを利用して、沖積低地の開発を進ているようにも見えます。かつてはこうしたりに居館を構え、東に隣接するため池の灌かん漑がいて強固な武士団結合が形成される道筋を示しは、白方氏について、豊受皇大神宮の境内辺を中心に分家した庶子たちが血縁的に団結しはかなり距離を置いています。故志田諄一氏たかのように表されています。その後も惣そうり領ょうに始まる白方氏の所領・白方郷は、それらとかれして、父から息子たちへと子孫が繁栄し内に分布していますが、吉田広ひろ幹もとの子・興お幹きもとこれに伴う系図にも、あたかも樹木が枝分の地は、おおむね那珂川北岸のひたちなか市理山・藤佐久等ハ吉田族也、う。吉田氏から分家していく武士たちの苗字(中略)白方・太良崎・勝倉・市毛・武田・堀口・道おそらくそのような背景があったのでしょ田ノ太郎盛幹ノ嫡子、吉田太郎、大戸其嫡也、東海村に拠点を置いた白方氏の成立にも、吉田三頭ハ、吉田・石川・馬場也、(中略)吉ようです。述しています。苗みょ字うじとする平氏一族が各地に分立していったら吉田一族が分家する様相を、次のように記を娘婿等として呼び込むことで、郷・村名を盛の弟・繁盛の子孫である常陸平氏の流れかに人脈を持つ桓武平氏一門に連なる武士たち「常ひた陸ち大だいじ掾ょう伝でん記き」は、平将門を倒した平貞ざまな利権を守るため、地方の名門であり都常陸平氏・白方氏の成立を考える高橋修茨城大学教授ふるさと歴訪~歴史を再発見~豊受皇大神宮