ブックタイトル広報 稲敷 2015年5月号 No.122

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広報 稲敷 2015年5月号 No.122

広報稲敷平成27年5月号34ふるさと探訪第104号謎の僧「常陸坊海存」●市郷土資料調査委員・濵田純男阿波大杉神社の隣、安あん穏のん寺じの参道石段傍に「常陸坊海存」の石碑が建っています。龍りゅうげさん華山安隠寺は、昔から地域の人々に「かいぞん様」と呼ばれ信仰され、桜の名所として多くの参拝者が訪れます。さて、海存とはどんな人物なのでしょうか。「義ぎ経けい記き」や「源平盛衰記」に登場し名前は知られていますが、謎多き人物です。武蔵坊弁慶と同様に、源義経の家来と伝えられています。義経の吉野から奥州平泉までの、逃避行での案内役だったそうですが、肝心な時には何時も身を隠していたと言われています。源頼朝の要請を受けた藤原泰衡が義経を襲った、文治五年衣川の合戦の際、義経が僅かな兵で追手と戦っていた時、義経の数名の家来が戦に加わらなかった。近くの山寺へ参拝に行き、生き延びた中の一人が、海存だそうです。その後、行方不明になり、後世に逃げ上手、生き上手の海存になったと言われています。何故かその後何度か出現し、天海僧正に枸く杞この長寿効能を教えたのが海存だとも言われ、四〇〇年も五〇〇年も生きたと、不老不死伝説が生まれたのです。また、容貌魁偉の海存は巨体、紫の髭、青い目、高い鼻で、まさに天狗の容貌であったそうです。文治年間大杉大明神の功く徳どくにより、数々の奇跡を起こしたことから、海存は大杉大明神の使者天狗であると伝えられ、現在の大杉神社の天狗信仰へと発展したと言われています。容貌から海存は渡来人かと推測するのは私だけでしょうか。また、快賢だったとか、富士山に登り、身を隠し、後に仙人職となり、これにより上野の寛永寺や日光の輪王寺の直じき兼けん帯たいとなりました。明治時代まで安穏寺と大杉神社は神仏習合で祀られていました。常陸坊海存(海尊)が社僧として滞在したとされ、「安穏寺縁起記」に次の記述があります。「文治五年(一一八九)の秋、行脚僧東奥より来りて、安穏寺に投宿す。容よう貌ぼう魁かい偉いにして自ら清悦大師と称し、密法不測にして、聴いて知らざる所なし云うん々ぬん。また、常陸国乗浜郷のある宿坊にて生まれ、浜育ちで船乗に熟練していたとあります。になったとか、墓が岩手県九戸郡洋野町に伝わっているとか、謎の「かいぞん様」です。「かいぞん様」を探しに、安穏寺を訪れては如何でしょうか。参考資料富澤静堂著『大杉神社文書録』秋本勇著『桜川村郷土史資料第壱集』●歴史民俗資料館?0299?79?3211大杉神社の別当寺として、延暦二四年(八〇五)快かい賢けんが建立したと言われる天台宗の寺院です。江戸時代初期には、江戸崎不動院の住職であった天海僧正が住?安穏寺?海存自作の面?海存像(安穏寺所蔵)?海存碑